東漢時代に入る前に

概略
紀元25年六月、漢の皇族・劉秀が漢帝国を復興しました。
高祖・劉邦が建てた漢は長安を都にしましたが、劉秀の漢は雒陽(洛陽)を都にしたため、劉邦の漢と劉秀の漢は二都の位置関係から「西漢」と「東漢」に分けられます(日本では「前漢」「後漢」という名称が一般的ですが、五代十国時代にも「後漢」という国が登場するため、中国では通常「西漢」「東漢」といいます)
 
東漢を建国した劉秀は光武帝と呼ばれます。光武帝が即位して約三カ月後に更始政権が滅ぼされました。
しかし各地にはまだ劉永、張歩、隗囂、公孫述等の群雄が割拠しています。
光武帝が天下を統一するのは、即位から約十年後のことです。
 
東漢の政治体制は西漢の制度を基礎にして更に発展させました。
まず中央政府には西漢後期に成立した三公を置きましたが、それと同時に尚書台を設けました。
秦代以降、百官の長を務めたのは「丞相」でした。丞相は皇帝のすぐ下の地位におり、大きな権限を持ちます。
しかし西漢武帝の頃から丞相の権限を抑える動きが生まれました。代わりに権力を掌握したのが尚書です。
尚書は元々文書を扱う官職でしたが、武帝が近侍を尚書(中書)に任命して重用したことから権限が大きくなりました。西漢後期の尚書は百官が上書を行う際、その内容を事前に確認して、皇帝に伝えるか却下するかを選択する権利を持ちました。本来は政務に忙しい皇帝の負担を軽減することが目的でしたが、しだいに尚書に任命された者が皇帝の意向を左右する力を持つようになります。
皇帝とその秘書的な存在である尚書の世界を「内朝」、丞相を長とする群臣官僚の世界を「外朝」といいますが、尚書の発言権が大きくなるにつれて、政治権力の中心が外朝から内朝に移っていきました。
また、西漢末期には丞相を「大司徒」に改名し、「大司空」「大司馬」と並べて三公と呼ぶことにしました。これは単独で百官の上に立っていた「丞相」の権威が縮小されたことを意味します。
 
東漢時代になると、光武帝尚書台を設けて尚書の権限を確立しました。
同時に「大司徒」「大司空」から「大」をとって「司徒」「司空」に改名し、「大司馬」を「太尉」に改めました。これが東漢の三公(「太尉」「司徒」「司空」)です。三公の上には「上公」として「太傅」も置かれました。
西漢前期の「丞相」という存在が大きく変化し、政治を動かす権限は皇帝を中心とする内朝尚書台)に集められました。
 
地方行政では西漢の郡国制(諸侯の封国と郡県が並存する制度)を踏襲しました。西漢と同じく劉氏皇族が王に封じられ、功臣が列侯に封じられます。しかし封国の規模は西漢に較べて圧倒的に小さく、国内の行政も主に中央が派遣した官吏によって行われました。
また、光武帝は多数の功臣を封侯したものの、皇帝権の強化を目指したため、政治上の実権はほとんど与えませんでした。東漢初期の功臣は中央の政治から離れ、封邑で世世代代、経済的な発展を目指します。その結果、東漢末には各地で独自の武装組織を持つ大地主や豪族が並立するようになりました。
 
郡県の制度は西漢とほぼ同じですが、東漢は「刺史」の権限を拡大しました。
西漢時代は中央県という三段階の行政で、州刺史はあくまでも中央が郡県を監視するために派遣した監督機関に過ぎませんでした。しかし東漢時代になると刺史にも政治や軍事における決定権が与えられるようになり、中央県という行政秩序が形成されます。
東漢末、刺史が「州牧」に改められると、その権限は更に大きなものとなり、東漢末に群雄が割拠する原因の一つになりました。
 
このように東漢時代は、中央では皇帝権の強化を図りましたが、地方では州刺史や豪族が独立性を高め、次第に中央政府が制御できないほどの勢力を持つようになりました。
 
 
全国を統一した光武帝は「中興の祖」として称えられています。光武帝は混乱した社会の秩序を正し、王莽時代に衰退した産業の復興を重視して、安定した社会を築くことに努めました。
光武帝の跡を継いだ明帝、章帝の時代も東漢は国力を増強させ、匈奴や西域に対する影響力を恢復していきました。明帝、章帝の治世は「明章の治」として称えられています。
 
しかし章帝は一つの禍根を残しました。
章帝は十八歳で即位し、三十一歳で死にました。章帝が短命だったため、その跡を継いだ和帝は即位時わずか十歳でした。
幼い和帝の即位後、皇帝の母親の一族、すなわち外戚が政治に口出しするようになりました。
和帝の後も多くの皇帝が幼くして即位したため、ますます外戚に専横の機会を与えました。例えば和帝の次の殤帝は生後三カ月、安帝は十三歳、順帝は十一歳、沖帝は二歳、質帝は八歳、桓帝は十五歳で即位しました(柏楊『中国人史綱』を参考にしました)
 
皇帝が幼い頃は外戚の力が必要ですが、成長したら外戚の専横に不満を抱くようになり、皇帝と外戚の対立が始まります。
しかし権勢を握った外戚から皇帝が権力を取り戻すのは難しいことでした。例えば外戚梁冀に抵抗しようとした質帝は逆に毒殺されてしまいます。
若い皇帝には単独で外戚勢力に立ち向かう力がないため、普段から身辺に仕える宦官を頼りました。
東漢中後期は外戚勢力と宦官勢力の戦いが繰り返されるようになります。
 
東漢後期、外戚の力を借りた桓帝外戚梁氏を滅ぼし、宦官を政治の中心に用いました。
外戚と宦官の対立はひとまず落ち着きましたが、今度は「士」と呼ばれる知識階級の者達が宦官による政治に反対しました。宦官と士人の対立が始まります。
結局この対立は、皇帝の傍に仕えて中央に大きな権力を持つ宦官勢力が勝利しました。多くの士人が逮捕されたり政界から追放されます。
 
桓帝を継いだ霊帝も宦官を重用しました。
その頃、地方では豪族による土地の兼併が進み、貧しい農民が土地を失っていきました。更に蝗や洪水等の災害が民衆を襲います。
政府がまともに機能していれば適切な救済を行うこともできますが、権力闘争と宦官による専横のため、東漢政府にはその力が欠如していました。
民衆は政府に対する不満を積もらせ、逆に中央から追放された士人達が民衆の同情と支持を集めていきます。
 
そしてついに太平道という宗教を開いた張角が大規模な挙兵をしました。 
張角の挙兵は一年も経たずに失敗に終わりましたが、東漢政府に大きな衝撃を与えました。政府は追放していた士人達を再登用して政治の立て直しを図ります。
ところが、このような状況下にあっても朝廷では権力争いが続いていました。霊帝の死後、外戚何進が宦官勢力と対立して殺され、混乱の中、西方で勢力を養っていた董卓が雒陽に入ります。
董卓は漢朝最後の皇帝となる献帝を即位させましたが、実権は董卓自身に掌握されました。それに反対した群雄が各地で反董卓の兵を挙げます。
やがて董卓は滅ぼされましたが、各地の群雄は既に有名無実化した東漢政府を無視して自分の勢力を拡大するようになりました。
そして220年、曹氏による魏曹丕東漢献帝から皇帝の位を奪い、約二百年続いた東漢時代が滅亡しました。
 
 
東漢歴代皇帝
世祖光武皇帝光武帝 劉秀
顕宗孝明皇帝(明帝) 劉荘
粛宗孝章皇帝(章帝) 劉炟
孝和皇帝(和帝) 劉肇
孝殤皇帝(殤帝) 劉隆
孝安皇帝(安帝) 劉祜
孝順皇帝(順帝) 劉保
孝沖皇帝(沖帝) 劉炳
孝質皇帝(質帝) 劉纘
孝桓皇帝桓帝 劉志
孝霊皇帝霊帝 劉宏
少帝廃帝 劉辯
孝献皇帝献帝 劉協
 
 
参考文献
後漢書』『三国志』の「本紀」と『資治通鑑』を主軸とし、必要に応じて「列伝」や他の書籍からも引用します。
但し、『後漢書』の『皇后紀』は列伝とみなします。
また、『三国志』においては、『蜀書』の『先主劉備伝』『後主劉禅伝』『諸葛亮伝』および『呉書』の『孫破虜孫堅討逆孫策伝』『呉主孫権伝』『三嗣主伝』も本紀と同等とみなしてほぼ全訳します。


次回から東漢時代です。

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