東漢時代に入る前に
概略
高祖・劉邦が建てた漢は長安を都にしましたが、劉秀の漢は雒陽(洛陽)を都にしたため、劉邦の漢と劉秀の漢は二都の位置関係から「西漢」と「東漢」に分けられます(日本では「前漢」「後漢」という名称が一般的ですが、五代十国時代にも「後漢」という国が登場するため、中国では通常「西漢」「東漢」といいます)。
しかし各地にはまだ劉永、張歩、隗囂、公孫述等の群雄が割拠しています。
光武帝が天下を統一するのは、即位から約十年後のことです。
秦代以降、百官の長を務めたのは「丞相」でした。丞相は皇帝のすぐ下の地位におり、大きな権限を持ちます。
尚書は元々文書を扱う官職でしたが、武帝が近侍を尚書(中書)に任命して重用したことから権限が大きくなりました。西漢後期の尚書は百官が上書を行う際、その内容を事前に確認して、皇帝に伝えるか却下するかを選択する権利を持ちました。本来は政務に忙しい皇帝の負担を軽減することが目的でしたが、しだいに尚書に任命された者が皇帝の意向を左右する力を持つようになります。
また、西漢末期には丞相を「大司徒」に改名し、「大司空」「大司馬」と並べて三公と呼ぶことにしました。これは単独で百官の上に立っていた「丞相」の権威が縮小されたことを意味します。
同時に「大司徒」「大司空」から「大」をとって「司徒」「司空」に改名し、「大司馬」を「太尉」に改めました。これが東漢の三公(「太尉」「司徒」「司空」)です。三公の上には「上公」として「太傅」も置かれました。
地方行政では西漢の郡国制(諸侯の封国と郡県が並存する制度)を踏襲しました。西漢と同じく劉氏皇族が王に封じられ、功臣が列侯に封じられます。しかし封国の規模は西漢に較べて圧倒的に小さく、国内の行政も主に中央が派遣した官吏によって行われました。
また、光武帝は多数の功臣を封侯したものの、皇帝権の強化を目指したため、政治上の実権はほとんど与えませんでした。東漢初期の功臣は中央の政治から離れ、封邑で世世代代、経済的な発展を目指します。その結果、東漢末には各地で独自の武装組織を持つ大地主や豪族が並立するようになりました。
西漢時代は中央→郡→県という三段階の行政で、州刺史はあくまでも中央が郡県を監視するために派遣した監督機関に過ぎませんでした。しかし東漢時代になると刺史にも政治や軍事における決定権が与えられるようになり、中央→州→郡→県という行政秩序が形成されます。
しかし章帝は一つの禍根を残しました。
章帝は十八歳で即位し、三十一歳で死にました。章帝が短命だったため、その跡を継いだ和帝は即位時わずか十歳でした。
幼い和帝の即位後、皇帝の母親の一族、すなわち外戚が政治に口出しするようになりました。
和帝の後も多くの皇帝が幼くして即位したため、ますます外戚に専横の機会を与えました。例えば和帝の次の殤帝は生後三カ月、安帝は十三歳、順帝は十一歳、沖帝は二歳、質帝は八歳、桓帝は十五歳で即位しました(柏楊『中国人史綱』を参考にしました)。
若い皇帝には単独で外戚勢力に立ち向かう力がないため、普段から身辺に仕える宦官を頼りました。
外戚と宦官の対立はひとまず落ち着きましたが、今度は「士」と呼ばれる知識階級の者達が宦官による政治に反対しました。宦官と士人の対立が始まります。
結局この対立は、皇帝の傍に仕えて中央に大きな権力を持つ宦官勢力が勝利しました。多くの士人が逮捕されたり政界から追放されます。
その頃、地方では豪族による土地の兼併が進み、貧しい農民が土地を失っていきました。更に蝗や洪水等の災害が民衆を襲います。
政府がまともに機能していれば適切な救済を行うこともできますが、権力闘争と宦官による専横のため、東漢政府にはその力が欠如していました。
民衆は政府に対する不満を積もらせ、逆に中央から追放された士人達が民衆の同情と支持を集めていきます。
東漢歴代皇帝
顕宗孝明皇帝(明帝) 劉荘
粛宗孝章皇帝(章帝) 劉炟
孝和皇帝(和帝) 劉肇
孝殤皇帝(殤帝) 劉隆
孝安皇帝(安帝) 劉祜
孝順皇帝(順帝) 劉保
孝沖皇帝(沖帝) 劉炳
孝質皇帝(質帝) 劉纘
参考文献
但し、『後漢書』の『皇后紀』は列伝とみなします。
また、『三国志』においては、『蜀書』の『先主(劉備)伝』『後主(劉禅)伝』『諸葛亮伝』および『呉書』の『孫破虜(孫堅)討逆(孫策)伝』『呉主(孫権)伝』『三嗣主伝』も本紀と同等とみなしてほぼ全訳します。
次回から東漢時代です。