東漢時代28 光武帝(二十八) 周党 29年(8)

今回で東漢光武帝建武五年が終わります。
 
[二十九] 『資治通鑑』からです。
王莽の末年、交趾諸郡が境界を閉ざして守りを固めました。
 
東漢の岑彭は以前から交趾牧鄧譲と厚い親交があったため、書を送って国家の威徳を述べました。
また偏将軍屈充を派遣して江南に檄文を送り、詔命を実行させました。
 
その結果、鄧讓と江夏太守侯登、武陵太守王堂、長沙相韓福、桂陽太守張隆、零陵太守田翕、蒼梧太守杜穆、交趾太守錫光(錫が氏、光が名です)等が相次いで使者を送って朝廷に貢献しました。
光武帝は全て列侯に封じます。
 
後漢書光武帝紀上』は「交阯牧鄧讓が七郡の太守を率いて(原文「鄧讓率七郡太守」)使者を派遣し、貢物を奉献した」と書いており、『光武帝紀上』の注は七郡を「南海、蒼梧、鬱林、合浦、交阯(交趾)、九真、日南」としています。
資治通鑑』は『後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』を元にしており、上述の通り、鄧讓と江夏太守侯登、武陵太守王堂、長沙相韓福、桂陽太守張隆、零陵太守田翕、蒼梧太守杜穆、交趾太守錫光等(鄧譲と七人の太守・国相)が「相次いで使者を送って貢物を献上した(相率遣使貢献)」と書いています。
蒼梧郡と交趾郡は交阯牧の管轄下にありますが、江夏、武陵、長沙、桂陽、零陵は交阯州(後の交州)に含まれません。
鄧讓が蒼梧郡や交趾郡を含む管轄下の七郡に指示して東漢に使者を送り、それ以外にも江夏、武陵、長沙、桂陽、零陵が使者を送ったのか、使者を送った七郡は交阯州の七郡ではなく、蒼梧、交趾および江夏、武陵、長沙、桂陽、零陵を指すのかは、はっきりしません。
 
本文に戻ります。
交趾太守錫光は漢中の人でしたが、交趾に住んで民夷漢人少数民族に礼義を教えました。
また、光武帝が宛の人任延を九真太守に任命し、任延は民に耕種(農耕)嫁娶(婚姻)を教えました。
嶺南における華風(中原の風習)はこの二守(錫光と延任)から始まりました。
 
[三十] 『後漢書光武帝紀上』からです。
光武帝が詔を発し、済陽を対象に二年の徭役を免除しました(復済陽二年傜役)
光武帝紀上』の注によると、皇考光武帝の父)南頓君劉欽はかつて済陽令を勤め、西漢哀帝建平元年(前6年)光武帝が済陽宮で生まれたため(『後漢書光武帝下』には「済陽の県舎で生まれた」とあります。済陽宮は後につけられた名称だと思われます)、今回、徭役を免除しました。
 
[三十一] 『後漢書光武帝紀上』からです。
この年は野穀(野生の穀物がしだいに減少し、田畝(農地)がますます拡大しました。
 
[三十二] 『資治通鑑』からです。
この年、光武帝が詔を発して處士で太原の人周党、会稽の人厳光等を京師に招きました。
しかし周党は入見しても伏せるだけで謁しません(原文「伏而不謁」。『資治通鑑』胡三省注によると、入朝して天子に謁見した時は必ず拝礼稽首し、自ら姓名を名乗りました。「不謁」は叩頭稽首せず、姓名も名乗らなかったという意味です)
周党は自分の志(隠居すること)を守ることを願い、それを光武帝に話しました。
博士范升が上奏しました「伏して太原の周党、東海の王良、山陽の王成等を見るに、厚恩を蒙り受け、使者が三聘してから(三回招いてから)やっと車に就くことに同意しました(やっと招きに応じました)。しかし帝廷(朝廷)で陛見(謁見)しても、周党は礼に従って屈することなく、伏して謁せず、偃蹇(傲慢)驕悍(驕慢横暴)で、同時に共に逝きました(去りました。周党は王良、王成等と共に入朝し、共に去ったようです)。周党等は、文においては義を広めることができず(文不能演義、武においては君のために死ぬことができず(武不能死君)、華名(美名)をつかんで(釣采華名)三公の位を得ることを望んでいます。臣は(彼等と共に)雲台(『資治通鑑』胡三省注によると、雲台は周王室が建てました。図書、術籍、珍玩、宝怪が所蔵されています)の下に座り、図国の道(国を図る道)を考試(試験)することを願います。臣の言のようではなかったら(虚名を得て三公の高位を望んでいるのではないのなら)(臣が)虚妄の罪に伏します。しかしもし秘かに虚名を窺い、自分を誇大して高位を求めているのなら(誇上求高)、皆、大不敬に当たります。」
上奏文が提出されると、光武帝は詔を発してこう言いました「古から明王、聖主には必ず不賓の士服従しない士)がいた。伯夷と叔斉は周の粟(食糧)を食べず、太原の周党は朕の禄を受けず、どちらにも志があった。よって帛四十匹を下賜して還らせることにする(罷之)。」
 
光武帝は若い頃、厳光と共に遊学しました。
即位してから物色(容貌)を元に厳光を探させ、斉国で見つけます。
厳光は光武帝が何回も招いてからやっと上京し、諫議大夫に任命されましたが、官職を受けようとせず、雒陽を去って富春の山中で耕釣(農耕や魚釣り)しました。最後は家で寿命を終えます。
資治通鑑』胡三省注によると、富春県は会稽郡に属します。後に晋簡文帝の太后鄭氏(鄭阿春)の名を避けて富陽に改名されました。
 
王良は後に沛郡太守と大司徒司直を歴任します。官位に就いても恭敬倹約で、布被(布の布団)や瓦器(粗末な陶器)を使い、妻子も官舍に入れませんでした。
後に病のために帰郷しましたが、一年後に再び招かれました。しかし滎陽で病が篤くなり、道を進めなくなります。
王良が友人を訪ねましたが、友人は会おうとせずこう言いました「忠言や奇謀があって大位を取ったのではないのに、なぜこのように慌ただしく往来して面倒だと思わないのか(原文「何其往来屑屑不憚煩也」。功績もないのに官位を得るために往来を繰り返す王良を風刺しています)。」
友人に拒絶された王良は慚愧しました。
この後、何回も朝廷に召されましたが全て応じず、家で余生を終えました。
 
[三十三] 『資治通鑑』からです。
西漢元帝の時代、莎車王延が侍子として京師に行き(恐らく王になる前の事です)、中国(中原)を愛して敬慕しました。
王莽の乱が起きてから、匈奴が西域諸国を攻略しましたが、延だけは附属しようとせず、常に諸子を戒めてこう言いました「漢家を世奉し(代々奉じ)、裏切ってはならない(不可負也)。」
延が死んでから子の康が立ちました。
康は旁国(隣国)を率いて匈奴に対抗し、かつての西域都護の吏士や妻子千余口を保護しました。
資治通鑑』胡三省注によると、王莽の乱に乗じて西域諸国が都護を攻め落としました。都護の吏士や妻子は帰国できず、西域で暮らしていました。
 
莎車王康は檄書を河西(竇融)に送って中国の動静を訊ねていました。
そこで竇融が承制(皇帝の代理としての命令)によって莎車王康を漢莎車建功懐徳王西域大都尉に立てました。西域五十五国が全てこれに属します。
 
 
 
次回に続きます。