東漢時代29 光武帝(二十九) 公孫述 30年(1)

今回は東漢光武帝建武六年です。五回に分けます。
 
庚寅 30
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
春正月丙辰(十六日)、舂陵郷を章陵県に改め、豊や沛のように世世(代々)徭役を免じることにしました(復傜役,無有所豫
 
舂陵郷は光武帝の故郷です。
西漢高帝が天下を統一してから沛と豊の徭役を免除したため西漢高帝十二年195年)光武帝もそれに倣って自分の故郷の徭役を免除しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
辛酉(二十一日)光武帝が詔を発しました「往歳(往年。ここ数年)、水旱蝗蟲が災となり、穀物の価格が高騰して(穀價騰躍)、人用(人が必要とする物)が困乏した。朕は百姓が自贍(自給)できないことを思い、心を痛めて憐憫している(惻然愍之)。よって穀物がある郡国に命じ、高年(老齢者)、鰥寡(配偶者がいない男女。『後漢書光武帝紀下』の注によると、六十歳で妻がいない男を「鰥」、五十歳で夫がいない女を「寡」といいます)、孤独(孤児や身寄りがない老人。『後漢書光武帝紀下』の注によると、幼いのに父がいないことを「孤」、老いても子がいないことを「独」といいます)および篤𤸇(病人)、家属がなく貧困のため自存できない者を対象に、律に基いて給稟(食糧を与えること)させる(何の律を指すのかは分かりません。『後漢書光武帝紀下』は「漢律は既に失われている(今亡)」と書いています)。二千石は勉めて循撫を加え、失職させてはならない(自分の職責を損なってはならない。原文「無令失職」)。」
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
東漢の揚武将軍馬成等が舒を攻略し、李憲を獲ました。
胡三省注によると、李憲が滅んだことによって江淮が平定されました。
 
二月、大司馬呉漢が胊を攻略し、董憲と龐萌を獲ました。山東が全て平定されます。
 
「李憲、董憲、龐萌を獲た(原文「獲李憲」「獲董憲、龐萌」)」というのは『後漢書光武帝紀下』の記述で、「捕虜にした」ではなく「首を獲た」という意味だと思われます。『資治通鑑』は「董憲、龐萌を斬った(斬董憲、龐萌)」に書き換えています(『資治通鑑』本文は「馬成等が舒を攻略して李憲を獲た(斬った)」という記述が抜けており、二月に呉漢が胊を攻略して董憲と龐萌を斬ったことしか書いていません)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
東漢の諸将が京師に還りました。
光武帝が宴を開いて賞賜を与えます。
 
光武帝は長年軍中にいて苦労が続いているため(積苦兵間)、兵を休ませようとしました。当時は隗囂が子を派遣して内侍させており、公孫述も遠い辺垂(辺境)を拠点にしているので、直接の危険がありません。
そこで光武帝は諸将に「暫くこの両子(隗囂と公孫述)を度外に置くべきだ」と言い、諸将を雒陽で休ませて軍士を河内に分けました。
また、しばしば隴(隗囂)と蜀(公孫述)に書を送って禍福を告示しました。
 
公孫述はしばしば書を中国(中原)に送り、自分に符命があると述べて大衆を惑わそうとしました。
光武帝が公孫述に書を与えて言いました「図讖が言う公孫は宣帝である西漢昭帝時代に「公孫病已立つ」という符命があり、宣帝の即位を預言しました。西漢昭帝元鳳三年78年参照)。漢に代わる者の姓は当塗で、その名は高である(下述します)。君が高の身だというのか(君が「当塗高」本人だというのか)。また、(君は)掌文を瑞としているが、王莽がどうして倣うに足りるだろう(公孫述は掌に「公孫帝」という文字を刻んで符瑞としました(玄漢劉玄更始三年東漢光武帝建武元年25年参照)。王莽も自ら符命を作って帝位に上り、五威将帥を天下に派遣してその内容を公表しました)。君はわしの賊臣乱子ではない。倉卒の時(切迫した時。非常の時)とは、人は皆、君事を為すものである(国君になろうとするものである。原文「卻為君事耳」)。君は日月が既に逝き(既に年老いて)、妻子も弱小なので、早く計を定めるべきだ。天下の神器は力争できるものではない。よく考えた方がいい(宜留三思)。」
光武帝は文書に「公孫皇帝」と署名しました。
公孫述にこれに応えませんでした。
 
「当塗高」に関について簡単に書きます。
後漢書隗囂公孫述列伝(巻十三)』の注によると、光武帝は公孫述に「赤を継承する者は黄である。姓は当塗、その名は高である」と言いました。
三国志杜周杜許孟來尹李譙郤伝(巻四十二蜀書十二)』の記述に「『春秋讖』が漢に代わる者は当塗高だといっている」とあります。『春秋讖』は既に失われているため詳細がわかりませんが、西漢時代に書かれた預言書のようです。
 
『太平御覧皇王部十三(巻八十八)』では、『漢武故事』から引用して西漢武帝が「六七四十二。漢に代わる者は当塗高である」と言っています。これを見ると武帝の時代には「当塗高」の予言が存在していたようにも思えます。しかし、「六七四十二」というのは、西漢東漢を合わせた四百二十年を指すので、この話は東漢末か魏晋に入ってから後付けで造られたものであるとされています。
 
本文に戻ります。
公孫述の騎都尉平陵の人荊邯が公孫述に言いました「漢高祖は行陳(行陣。行軍)の中で身を起こし、兵が破れて身が困窮したこともしばしばありましたが、軍が敗れても復合し、傷が治ったら再び戦いました(瘡愈復戦)。なぜでしょうか(何則)?死を冒して前に進むことで功を成した方が、退いて滅亡するよりも勝っているからです(前死而成功,愈於卻就於滅亡也)
これに対して隗囂は、運会(好機)に遭遇して雍州を割有(占拠)し、兵が強く士が帰附し、威を山東に加えました。また、ちょうど更始の政乱に遇って再び更始帝が)天下を失い、衆庶(民衆)が引領して(首を長くして新たな統治者を望み)、四方が瓦解しました。しかし隗囂はその時に及んでも、危難を除いて勝ちに乗じることで(推危乗勝)天下を争おうとせず、退却して西伯西周文王)の事を為し、章句(文章)を尊んで習い(尊師章句)、処士を賓客や友人の礼で遇し(賓友処士)、武を収めて戈(武器)を休め偃武息戈)、腰を低くして漢に仕え(卑辞事漢)、感嘆して自分を文王の再世だと思っています(喟然自以文王復出也)。そのため、漢帝に関(関中)隴の憂を解かせ、東漢は)東伐に専精して天下を四分したらその三を有すようになりました。また、間使(密使)を発して攜貳(二心を抱く者)を招き(『資治通鑑』胡三省注によると、「間使」は来歙、馬援等を指し、「攜貳」は光武帝に帰順した王遵、鄭興、杜林、牛邯等を指します)、西州豪傑を全て山東に居心させました。こうして(天下を)五分したらその四を有すようになったのです。
もし東漢が)天水に対して兵を挙げたら、(兵が)至ったら必ず(隗囂が)沮潰(潰滅)します。天水が平定されたら(天下を)九分して八を有すことになります。そうなったら、陛下(公孫述)は梁州の地(蜀の地)をもって内は万乗(皇帝。東漢光武帝を奉じ、外は三軍を提供し(公孫述が蜀から出ることなく、光武帝が天下の九分の八を有したら、公孫述は光武帝を奉じて東漢のために兵を出すことになり)(その結果)、百姓が愁困して上の命に堪えられなくなっています。やがて王氏が自潰した変(王莽が自滅した時のように内部から発生する変事)が起きるでしょう。
臣の愚計によるなら、天下の望みが絶たれておらず、豪傑をまだ招誘できる時に乗じて、急いでこの機に国内の精兵を発し、田戎に命じて江陵を占拠させ、江南の会(長江と支流が合流する場所)に臨み、巫山の固(堅固な地形)に頼り、塁を築いて堅守するべきです。呉、楚に檄を伝えれば、長沙以南は必ずすぐに服従するでしょう(原文「隨風而靡」。本来は風に従って倒れる様子を表しており、自分の意見がなく、すぐに人に従うという意味で使われます)。延岑に命じて漢中から出撃させ、三輔を定めれば、天水、隴西が拱手して自ら服します。こうすれば海内が震搖し、大利を望むことができます(冀有大利。」
 
公孫述がこの意見について群臣に問うと、博士呉柱がこう言いました「武王が殷を征伐した時、八百諸侯が約束しなくても言辞を同じくしました(不期同辞)。しかしそれでも師(軍)を還して天命を待ちました。左右の助がないのに千里の外に出師を欲する者というのは聞いたことがありません。」
 
荊邯が言いました「今、東帝光武帝には尺土の柄(権力)もなく、烏合の衆を駆けさせていますが、馬に乗って敵陣を落とし(跨馬陷敵)、向かう所をことごとく平定しています。急いで時に乗じて彼と功を分けようとせず、坐して武王の説を語っていますが、これは隗囂が西伯になろうとしていたことをまた真似しています。」
 
公孫述は荊邯の言に納得しました。そこで北軍の屯士や山東の客兵を全て動員し(『資治通鑑』胡三省注によると、公孫述は漢制に倣って北軍を置きました。「山東の客兵」は山東から蜀に移住して兵になった者です)、延岑と田戎に二道から分かれて出撃させ、漢中の諸将と合流させようとしました(合兵幷勢)
しかし蜀の人々や公孫述の弟公孫光等は、国を空にして千里の外に出撃し、一挙によって成敗を決する方法は採るべきではないと考えました。
結局、公孫光等が強く反対したため、公孫述は出征を中止します。
 
延岑や田戎も功を立てる機会を得るためにしばしば出兵の許可を求めましたが、公孫述は最後まで躊躇して同意せず、公孫氏だけが事(大事。兵事)を任されました。
 
公孫述は銅銭を廃して鉄銭を置きました。しかし新貨幣は流通せず、百姓が苦にしました。
公孫述の政治は苛細(厳格で細かいこと)で、清水令だった時のように小事を追求しました。
また、郡県や官名の改易(変更)を好みました。
 
公孫述は若い頃に漢の郎だったため(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢哀帝時代、公孫述は父の任子によって郎になりました。「任子」とは、功臣が自分の子弟を挙げて郎にすることです)、漢家の故事(前例)に習熟していました。外出する時は法駕(皇帝の儀仗の一種)を用い、鸞旗を立てて旄騎が先導します。
公孫述は二人の子を王に立ててそれぞれ犍為と広漢の数県を食邑にさせました。
ある人が諫めて言いました「成敗がまだわからず、戎士が暴露しているのに(戦士が野に曝されているのに)、先に愛子を王に封じたら、大志がないことを示してしまいます。」
公孫述が諫言に従わなかったため、大臣は皆怨みを抱くようになりました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代30 光武帝(三十) 隗囂離反 30年(2)