東漢時代56 光武帝(五十六) 呉漢の死 44年

今回は東漢光武帝建武二十年です。
 
甲辰 44
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
春二月戊子(初十日)、車駕光武帝が皇宮に還りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月庚辰(初三日)、大司徒戴渉が罪に坐し、獄に下されて死にました。
光武帝は三公の職が互いに関連していると考え、策書によって大司空竇融も罷免しました。
 
戴渉の罪は、『後漢書光武帝紀下』の注に「坐入故太公倉令奚渉罪」と書かれており、『資治通鑑』もこれを引用しています。胡三省が「罪がないのに罪を加えることを『入』という」と解説しているので、「旧太公倉令奚渉に無実の罪を着せた」「奚渉を罪に陥れた」というのが戴渉の罪のようです。
しかし『後漢書馬援列伝(巻二十三)』は「大司徒戴渉が推挙した人が金を盗んだため、戴渉も坐して獄に下された(渉坐所挙人盗金下獄)」としています。
どちらが正しいかはわかりません。
あるいは、「坐入故太公倉令奚渉罪(『後漢書光武帝紀下』の注および『資治通鑑』)」の「坐入」は「連座」の意味で、「奚渉に罪を着せた」のではなく、「奚渉の罪に連座した」という意味かもしれません。その場合は、「奚渉」は「戴渉が推挙した人」になります。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
大司馬・広平侯呉漢諡号は忠侯)が病に倒れ、病状が重くなりました。
車駕光武帝が自ら病床に臨んで呉漢に言いたいことがないか問うと、呉漢はこう言いました「臣は愚かなので知識がありません。ただ陛下が慎重にして大赦しないことを願うだけです(惟願陛下慎無赦而已)。」
 
五月辛亥(初四日)、呉漢が死にました。
光武帝は詔を発し、葬送の儀礼西漢宣帝時代の大将軍霍光の故事(前例)と同等にしました。
 
呉漢は性格が剛強(性強力)でした。光武帝の征伐に従った時、帝が休まなかったら常に慎重な態度をくずさず立ったままでいました(原文「漢性強力,每従征伐,帝未安,常側足而立」。「側足而立」は「足を横に向けて立つ」という意味で、恐れてまともに立てないことを形容しています。ここでは「慎重にする」と意訳しました。あるいは、「側足而立」の主語は光武帝で、「呉漢の性格が剛強で暴力的だったため、光武帝はいつも不安だった」という意味かもしれません。)
諸将は戦陣に利がなくなると、多くが惶懼(恐慌)して常度(常態)を失いました。しかし呉漢の意気(士気)は衰えることなく、器械(武器、道具)を整厲(準備奨励。整えて激励すること。ここでは「準備」の意味です)して吏士を激揚(激励)しました。
ある時、光武帝が人を送って大司馬(呉漢)が何をしているか確認させました。
使者は戻って呉漢が戦攻の道具を整えていると報告します。
光武帝が感嘆して言いました「呉公は人を満足させることができる(差強人意)。隠(『資治通鑑』胡三省注によると、「隠」は「威重の様子」です)が一敵国のようだ(呉漢の威重は一国に匹敵する。原文「隠若一敵国」)。」
いつも出師(出征)する際は、朝に詔を受けたら夕(夜)には軍を率いて道上におり、辨厳(辨装。準備。旅の仕度)の日もありませんでした(初無辨厳之日)
しかし朝廷にいたらとても慎重で(斤斤謹質)、その様子は礼儀や外見に現れていました(形于体貌)
呉漢がかつて出征した時、妻子が後ろで(家で)田業(田地)を買いました。呉漢は帰ってから妻子を譴責してこう言いました「軍師(軍隊)が外におり、吏士が(物資に)不足しているのに(吏士不足)、なぜ多くの田宅を買うのか!」
呉漢は田宅を兄弟や外家に分け与えました。
このようであったので、呉漢は重職を任せられ、功名によって生涯を終えることができました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
匈奴が上党、天水を侵して扶風に至りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
光武帝が風眩(風邪等が原因の目眩)に苦しみ、病がひどくなったため、陰興に侍中を兼任させ(領侍中)、雲台広室で顧命(臨終の命)を授けました。
後漢書樊宏陰識列伝(巻三十二)』の注によると、雒陽南宮に雲台と広徳殿がありました。これを見ると「広室」は「広徳殿」を指すようです。しかし『資治通鑑』胡三省注は、「この広室は寝殿である」と解説しています。「寝殿」は皇帝の霊が起居する場所で、先代皇帝の衣服や日用道具が保管されていました。
 
後に光武帝の病が快癒しました。
光武帝は陰興を引見して呉漢の代わりに大司馬に任命しようとしました。
しかし陰興は叩頭して涙を流しながら固く辞退し、こう言いました「臣はこの身を惜しむのではありません。誠に聖徳を虧損(欠損)させることになるので、貪り求めるわけにはいかないのです(不可苟冒)。」
陰興の至誠が心中から発せられたため、左右の者を感動させました。光武帝もこれに同意します。
 
太子太傅張湛は郭后が廃されてから病と称して入朝しなくなりました。
光武帝は張湛を無理に起たせて司徒に任命しようとします。しかし張湛は「病が重くて再び朝事を全うすることはできない」と称して固辞しました。
光武帝はあきらめました。
 
六月庚寅(十四日)、広漢太守河内の人蔡茂を大司徒に、太僕朱浮を大司空に任命しました。
壬辰(十六日)、左中郎将劉隆を驃騎将軍に任命し、大司馬の政務を行わせました(行大司馬事)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
乙未(十九日)、中山王劉輔を沛王に遷しました。
劉輔は郭后(元皇后郭聖通)が産んだ子です。
 
郭況を大鴻臚に任命しました。
後漢書皇后紀下』によると、郭況は郭后の弟で、光武帝に尊重されていました。
 
光武帝はしばしば郭況の邸宅を訪ね、賞賜として金帛を与えました。郭況は比べる者がないほど豊盛になり、京師の人々は郭況の家を「金穴」と呼びました。
資治通鑑』胡三省注によると、光武帝がしばしば郭況に恩恵を与えたのは廃位された郭后を慰めるためだったようです。
 
[七] 『後漢書光武帝紀下』からです。
秋、東夷の韓国人が衆を率いて楽浪を訪ね、内附(帰順)しました。
光武帝紀下』に注によると、東夷には辰韓、卞韓、馬韓があり、三韓国といいました。
 
[八] 『資治通鑑』からです。
九月、馬援が交趾から帰還し、平陵の孟冀が迎えて慰労しました。
馬援が言いました「今は匈奴烏桓がまだ北辺を擾しているので(攪乱しているので)、自らこれを撃つことを請いたいと思っている匈奴烏桓討伐の許可を請うつもりだ)男児は辺野で死に、馬革(馬の革)で尸を包んで還葬するべきだ。どうして牀(寝床)の上に臥して児女子(女子供)の手中にいることができるか。」
孟冀が言いました「その通りだ(諒)!烈士たるもの、そのようであるべきだ(為烈士当如是矣)!」
 
[九] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
冬十月、光武帝が東に巡狩(巡行)しました。
甲午(二十日)、魯を行幸し、東海、楚、沛国に進みました。
 
魯、東海、楚、沛国とも王国です。
当時の魯王は劉興光武帝の兄劉縯の子)です。
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉興は緱氏令を代行してから(試守緱氏令。東漢光武帝建武十五年39年参照)、明略(高明な智謀)があって訴訟を善く裁き、広く名声を得たため、弘農太守に遷されました。太守になってからも善政を行い、四年後に上書して引退を乞いました(乞骸骨)光武帝は劉興を京師に呼び戻して朝会に参加する権利を与えます(奉朝請)
建武二十七年(五十一年)、劉興が封国に赴きました。その翌年、東海国を拡大するために魯国が編入されたため、劉興は北海王に遷されました。
 
東海王は劉彊、楚王は劉英、沛王は劉輔で、三人とも光武帝の子です。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
十二月、匈奴が天水、扶風、上党を侵しました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
壬寅(二十八日)、車駕光武帝が皇宮に還りました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
馬援が自ら匈奴を撃つ許可を請いました。光武帝は出撃を許可して襄国に駐屯させます。
 
光武帝が詔を発して百官に祖道(道神を祀って見送ること)させました。
馬援が黄門郎梁松と竇固に言いました「人が富貴を得ても、誰でもまた卑賎に戻ることがあるものだ(凡人富貴,当使可復賎也)。もし卿等が再び卑賎になってはならないと欲するなら(卑賎に戻りたくないのなら。原文「欲不可復賎」)、高位にいても堅く(強く)自分を抑制しなければならない(堅自持)。鄙言(我が言)を勉めて思え(よく考えよ)。」
梁松は梁統の子、竇固は竇友(竇融の弟)の子です。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
劉尚が進軍して棟蠶等と連戦し、全て破りました(連戦連勝しました)
 
[十四] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この年、五原郡を除き、その吏人を遷して河東に置きました。
 
[十五] 『後漢書光武帝紀下』からです。
済陽県の傜役をまた六年免除しました(復済陽県傜役六歳)
光武帝の父劉欽はかつて済陽令を勤めたことがあり、光武帝西漢哀帝建平元年(前6年)に済陽宮で生まれたため、済陽の徭役を免除しました光武帝建武五年29年参照)
 
 
 
次回に続きます。