東漢時代62 光武帝(六十二) 朱勃の上書 49年(2)

今回は東漢光武帝建武二十五年の続きです。
 
[四(続き)] 元雲陽令(『資治通鑑』胡三省注によると、雲陽県は左馮翊に属し、秦の雲陽宮がありました。西漢の鉤弋夫人(昭帝の母)が雲陽に埋葬され、昭帝が母のために雲陵邑を築きました)扶風の人朱勃が宮闕を訪ねて上書しました「臣が窺い見るに(竊見)、故伏波将軍馬援は西州から起きて(抜自西州)、聖義光武帝の道義)を欽慕(敬慕)し、間関険難(「間関」は苦難の意味です)において万死を冒し(觸冒万死)、隴(隗囂)を経営しました。その謀は涌泉(湧水)のようで、その勢は円を転がすようで(原文「勢如転規」。「規」は「円」です。『孫子兵勢篇』の「千仞の高山で円石(丸い石)を転がすようなもの、これが勢である(如転圓石于千仞之山者,勢也)」から引用しています)、兵が動けば功があり、師が進めばいつも克ちました。先零を誅鋤(誅滅廃除)して飛矢が脛を貫き光武帝建武十一年35年参照)、交趾に出征して妻子と生訣(決別。生き別れ)しました。最近、再び南討し、すぐに臨郷を落として師(軍)に業(功業。端緒)ができましたが、完成させる前に死んでしまいました(未竟而死)。吏士に疫がありましたが、馬援一人が生き延びたのではありません(吏士が疫病に苦しんでいる時、馬援だけが安全な場所にいたのではありません。原文「吏士雖疫援不獨存」)。戦とは、あるいは久しくして功を立て(久而立功)、あるいは速戦によって敗北をもたらし(以速而致敗)、深入りしても正しいとは限らず(深入未必為得)、進まなくても誤りとは限りません(不進未必爲非)。人の情において、どうして絶地に久しく駐屯して生きて帰らないことを喜ぶのでしょうか(人情豈楽久屯絶地不生帰哉)。しかし馬援だけは朝廷に二十二年も仕えることができて、(その間に)北は塞漠烏桓に出て南は江海を渡り、害気を冒して(觸冒害気)軍事のために倒れて死にました(僵死軍事)(しかし馬援が死ぬと)名が滅んで爵が絶え、国土が伝えられなくなったのに(子孫が封地を継承できなくなったのに)、海内はその過(過失)を知らず、衆庶はその毀(批難。誹謗)を聞いたことがなく、家属が門を閉ざし、葬(遺体)が墓に帰らず、怨隙光武帝の馬援に対する怨恨と間隙)が共に興り、宗親が怖慄(恐怖戦慄)し、死者は自列(自白)ができず、生者には彼のために訴える者がないので、臣は内心で悲傷しています(臣竊傷之)。明主とは賞を用いることを厚くし、刑を用いることを制約するものです(醲於用賞,約於用刑)。高祖はかつて陳平に金四万斤を与えて楚軍を離間させ、出入や用途を問いませんでした。どうしてまた銭穀のことを疑ったでしょうか(原文「豈復疑以銭穀間哉」。臣下の財産に対して疑いを抱くことはなかったという意味です)(馬援の件を)公卿に下し、馬援の功罪が爵位を)断絶させるべきか存続させるべきかを評定して(平援功罪宜絶宜続)、海内の望を満たすことを願います。」
光武帝はわずかに怒りを収めました。
 
朱勃は十二歳で『詩』『書』を諳んじることができ、常に馬援の兄馬況に仕えていて、辞言が嫺雅(優雅)でした。
馬援は書を習い始めたばかりの時、自分が朱勃に及ばないため自失しました(空虚になりました。自信を失いました)
馬況は馬援の心中を知り、自ら酒を注いで馬援を慰め、こう言いました「朱勃は小器だから速く完成したが、智が尽きている(小器速成智尽耳)。最後は汝に従って学を授かるはずだ(従汝稟学)。畏れる必要はない。」
朱勃は二十歳になる前に、右扶風に招かれて渭城宰の職を試すことになりました(試守渭城宰)
資治通鑑』胡三省注によると、「試守」は試用期間に当たり、一年を経て「真」になりました。「真」は俸禄が全額与えられます。
 
後に馬援が将軍になって封侯されましたが、朱勃の位は県令に過ぎませんでした。
馬援は尊貴になってからも常に旧恩(旧情)によって朱勃に接しましたが、同時に卑侮(軽視)しました(常待以旧恩而卑侮之)。一方の朱勃はますます馬援を親愛しました。
馬援が讒言に遭ってからも、朱勃だけが最後まで態度を変えずにいられました。
 
謁者南陽の人宗均が馬援の監軍を勤めていました。
後漢書第五鍾離宋寒列伝(巻四十一)』では「宗均」を「宋均」としていますが、『資治通鑑』胡三省注は『後漢書帝紀』『姓苑』『姓纂』などから「列伝の『宋』は誤り」と解説しています。
 
馬援が死んでから、東漢の軍士で疫死した者が太半に及びましたが、蛮軍も飢困していました。
そこで宗均が諸将と議して言いました「今、道が遠く士が病んでいるので、戦うことはできない。とりあえず承制(皇帝に代わって出す命令)して招降しようと思うが(欲権承制降之)、如何だろうか?」
諸将は皆、地に伏せて(下を向いて)応えようとしません。
宗均が言いました「忠臣が境外に出てからは、国家を安んじられる計があるのなら専断してもいい(有可以安国家,専之可也)。」
宗均は矯制(偽りの命令)によって伏波司馬呂种を沅陵長代理(守沅陵長)に異動し、呂种に命じて詔書を持って虜営に入らせました。呂种が蛮夷に恩信を告げ、宗均が兵を率いて後ろに従います。
蛮夷は怖れ震えました。
 
冬十月、蛮夷が共に大帥を斬って投降しました。
宗均は賊営に入り、その衆を解散して本郡(故郷の郡)に還らせました。その後、長吏を任命して帰還します。
こうして群蛮が平定されました。
 
宗均は京師に到着する前に矯制の罪を自ら弾劾しました。
しかし光武帝は宗均の功を嘉し、(人を送って)出迎えて金帛を下賜しました。また、宗均に命じて故郷を通って墓参りをさせました(過家上冢)
資治通鑑』胡三省注によると、命を受けて外出したら、復命する前に家を訪ねることはできませんでした。今回、光武帝が宗均を故郷に帰らせたのは、寵栄を示すためです。
 
[五] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
この年、遼西の烏桓大人郝旦等が衆を率いて内属(帰順)し、宮闕を訪ねて朝貢しました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「『後漢書光武帝紀下』では本年春に既に烏桓大人の来朝を書いており、年末にまた烏桓朝貢内属したことを書いている。恐らく始めは大人だけが来朝し、後に種族を率いて内属したのである」と解説しています。
 
光武帝は詔を発して烏桓の渠帥を侯、王、君長に封じ、塞内に住ませました。併せて八十一人います。彼等を辺境周辺の諸郡に分布して種人(族人)を招かせ、衣食を供給しました。
こうして烏桓は漢の偵候(見張り)になり、東漢匈奴鮮卑を討つ時に援助するようになりました。
 
この時、司徒掾班彪が進言しました「烏桓は天性が軽黠(軽敏狡猾)で、寇賊となることを好むので、もしも久しく放縦させて総領する者がいなかったら、必ず再び居人(定住の民。漢人を掠めます(侵します)。主降掾吏(投降した者を管理する掾吏。下級官吏)に委ねるだけでは、恐く制御できません。臣の愚見によるなら、再び烏桓校尉(護烏桓校尉)を置くべきです。そうすれば誠に附集(招降)において益があり、国家の辺慮(辺境に対する憂い)を省くことができます。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、西都西漢が護烏桓校尉を置きましたが、王莽の時代に烏桓が叛したため、校尉が廃されました。胡三省は闞駰の『十三州志』から「護烏桓校尉は符節を持ち(擁節)、秩は比二千石だった。武帝が護烏桓校尉を置いて内附した烏桓を保護させた。設置してから匈奴中郎将と併せた」という記述を紹介し、「匈奴中郎将(使匈奴中郎将)もこの頃光武帝建武二十六年・50年)に置かれた。匈奴中郎将と併せたのがいつの事かは分からない」と解説しています。
 
光武帝は班彪の意見に従い、上谷甯城に再び護烏桓校尉を置きました。営府を開き、烏桓の保護監督と併せて)鮮卑に対する賞賜や質子(人質)、歳時(四季。または一年の定期的な時期)の互市(貿易)を監督させます。
資治通鑑』によると、甯城は県名で、「甯」は「寧」とも書きます。俗名を西吐城といいます。
 
 
 
次回に続きます。