東漢時代164 安帝(十四) 丁奚城の戦い 115年(2)

今回は東漢安帝元初二年の続きです。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
安帝が詔を発し、屯騎校尉班雄を三輔に駐屯させました。班雄は班超の子です。
また、左馮翊司馬鈞を征西将軍代行(行征西将軍)に任命して関中諸郡の兵八千余人を監督させました。『後漢書西羌伝(巻八十七)』によると、右扶風仲光、安定太守杜恢、北地太守盛包、京兆虎牙都尉耿溥、右扶風都尉皇甫旗等が司馬鈞の指揮下に入ります。
 
龐参が羌胡の兵七千余人を指揮して司馬鈞と共に道を分けて並進し、先零羌・零昌を攻撃しました。
しかし龐参の兵は勇士(県名)以東に至った時、杜季貢に敗れて撤退しました。
司馬鈞等は単独で進軍して丁奚城を攻略しました。杜季貢は衆を率いて偽りの逃走をします。
司馬鈞は右扶風仲光(『資治通鑑』胡三省注によると、袁宏の『後漢紀』は「右扶風太种暠」としています。『後漢書孝安帝紀』と『後漢書西羌伝(巻八十七)』では「右扶風仲光」で、『資治通鑑』は『後漢書』に従っています)等を派遣して羌の禾稼(作物)を収穫させました。
すると仲光等は司馬鈞の節度(指揮。命令)に違え、兵を分散させて深入りしました。羌が伏兵を設けて邀撃します。
司馬鈞は丁奚城内にいましたが、怒って助けに行きませんでした。
 
冬十月乙未(十三日)、仲光等の兵が丁奚城付近で敗れ、(仲光、杜恢、盛包、耿溥等が)皆、戦死しました。死者は三千余人に上ります。
司馬鈞は逃げ帰りました。
龐参も予定した期日に到着できなかったため、病と称して引き返します。
二人とも罪を問われて京師に呼び戻され、獄に下されました。司馬鈞は自殺します。
 
当時、度遼将軍梁慬も罪に坐して処罰を受けていました(坐事抵罪)
校書郎中扶風の人馬融(『資治通鑑』胡三省注によると、馬融は郎中として蘭台の書を校正整理していたため、「校書郎中」といいます)が上書して龐参と梁慬の智能を称賛し、過失を寛恕して功績を収めさせるべきだ(宥過責效)と進言しました。
そのため、安帝が詔を発して龐参等を赦しました。
 
後漢書班梁列伝(巻四十七)』によると、梁慬が度遼将軍になった翌年、安定北地上郡が羌寇(羌人の侵略)を被り、穀物が高騰して人々が流亡したため、自立できなくなりました。そこで安帝が詔を発し、梁慬に辺境の兵を動員して三郡の太守を迎え入れさせ、吏人を率いて扶風界内に遷すように命じました。
梁慬は南単于の兄の子優孤塗奴を派遣し、兵を率いて迎え入れさせます。
優孤塗奴が帰還すると、梁慬は塗奴がその家属(三郡太守の家属)を迎え入れるという功労を立てたため、羌侯の印綬を授けました。しかし専擅(専断)の罪を問われて呼び戻され、獄に下されて処罰を受けることになりました。その翌年、校書郎馬融が上書して梁慬と護羌校尉龐参を擁護しました。
資治通鑑』胡三省注は「梁慬が度遼将軍になったのは永初四年110年)、三郡の民を遷したのは永初五年111年)、龐参が獄に下されたのは本年(元初二年115年)なので、梁慬が獄に下された翌年に馬融が上書したというのは、恐らく『班梁列伝』の誤りである」と解説しています。
 
本文に戻ります。
龐参の代わりに馬賢に護羌校尉の政務を行わせ(領護羌校尉)、任尚を中郎将にして班雄の代わりに三輔に駐屯させました。
 
懐令虞詡が任尚に言いました「兵法においては、弱者は強者を攻めず(弱不攻強)、走る者は飛ぶ者を追わないのが(走不逐飛)自然の勢(形勢)です。今、虜は皆、馬に騎乗して日に数百里も行軍し、来る時は風雨のようで、去る時は絶弦(弦から離れた矢。迅速なことの喩えです)のようなので、歩によってこれを追っても及ぶはずがありません(以歩追之勢不相及)。だから二十余万を屯兵させても、時を無駄にして功がないのです(曠日而無功也)。使君(朝廷が派遣した官員)のために計を為すなら、諸郡の兵を解散させ、それぞれに銭数千を出すように命じ、二十人ごとに一頭の馬を買わせるべきです(二十人共市一馬)。万騎の衆によって数千の虜を駆逐し、後を追って襲撃すれば(追尾掩截)、その道(羌人の道)が自ら窮すので、民に便をもたらして事(戦事)も有利になり(便民利事)、大功が立てられるでしょう。」
任尚はすぐに上書して虞詡の計を用いました。
その結果、軽騎を送って丁奚城で杜季貢を撃破できました。
 
 
 
次回に続きます。