東漢時代166 安帝(十六) 先零羌衰退 116年
今回は東漢安帝元初三年です。
東漢安帝元初三年
丙辰 116年
春正月甲戌、太原の旧溝渠(水路)を修築して官私の田地に灌漑しました。
『孝安帝紀』の注によると、かつて晋の智伯が晋水を止めて晋陽で灌漑を行いました。今回修築したのは智氏が造った古い水渠です。
『孝安帝紀』の注はこう書いています「瑞応というのは、和帝以前は政事に美が多く事実に近かったので、(史書は)『某処に現れた(見於某処)』と書いた。しかし安帝以降は王道が衰微して虚飾のものもあったため、『某処が上言した(某処上言)』と書くようになった(「某処に現れた」と断言せず、「某処から報告があった」と書くようになった)。」
蒼梧・鬱林・合浦の蛮夷が反しました。
二月、侍御史・任逴に州郡の兵を指揮して討伐させました。
十の郡国で地震がありました。
三月辛亥(初二日)、日食がありました。
丙辰(初七日)、蒼梧、鬱林、合浦、南海の吏人で賊に迫られた者(脅迫されて罪を犯した者)を赦しました。
夏四月、京師雒陽を旱害が襲いました。
五月、武陵蛮が反しましたが、州郡の兵が討伐して破りました。
『後漢書・南匈奴列伝(巻八十九)』の本文と注によると、「度遼将軍」を置いてからは皆その職務を代行させて「行度遼将軍」にしましたが(権行其事)、元初元年(114年)に烏桓校尉・鄧遵を度遼将軍に任命した時、鄧遵が皇太后の従弟だったため、「正度遼将軍」にしました。ここから「真将軍」が始まり、「行度遼将軍」がいなくなりました。
『資治通鑑』胡三省注によると、度遼将軍は銀印青綬を持ち、秩は二千石です。霊州県は北地郡に属します。
越巂徼外(界外)の夷が種(族)を挙げて内属しました。
六月、中郎将・任尚が兵を派遣して丁奚城で先零羌を撃破しました。
秋七月、武陵蛮がまた反しましたが、州郡が討伐して平定しました。
緱氏(地名)の地が裂けました。
九月、馮翊北界に五百カ所の候塢(土堡・営壁)を築いて羌に備えました。
『資治通鑑』胡三省注によると、馮翊北界は安定、北地に接しています。
九月辛巳、趙王・劉宏が死にました。
劉宏の死後、子の恵王・劉乾が継ぎました。
また、零陵蛮の羊孫、陳湯等千余人が赤幘(赤い頭巾)を被り、将軍を称して挙兵しました。官寺(官府)を焼いて百姓を抄掠(略奪)します。
旧制では、公卿・二千石・刺史は三年の喪に服してはならないという決まりがありました。
司徒・劉愷が進言しました「これは百姓の模範となって風俗を宣揚美化することではありません(非所以師表百姓,宣美風俗)。」
丙戌(十一日)、始めて大臣・二千石・刺史が三年の喪を行うことを許しました。
十二月丁巳(十二日)、任尚が兵を派遣して北地で先零羌・零昌を撃ち、妻子を殺して廬舍を焼きました。七百余級を斬首します。
『資治通鑑』胡三省注は「羌勢はここから衰えた」と書いています。
次回に続きます。