東漢時代202 順帝(十五) 周挙 張衡 134年

今回は東漢順帝陽嘉三年です。
 
東漢順帝陽嘉三年
甲戌 134
 

[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。

春二月己丑、久しく旱害が続いたため順帝が詔を発し、京師の諸獄では罪の軽重を問わず、澍雨(大雨。または時に応じた雨)を得るまで全て考竟(審理。拷問)を行わないことにしました。,
 

[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。

三月庚戌、益州の盗賊が県の令・長を捕えて人質にし(劫質)、列侯を殺しました。
 

[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。

夏四月丙寅、車師後部司馬が後部王(車師後王)加特奴等を率いて閶吾陸谷で北匈奴を襲撃し、大破しました。

北匈奴単于(誰かはわかりません)の母が捕えられました。
 

[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と資治通鑑』からです。

五月戊戌(初四日)、春から夏まで旱害が続いていたため、順帝が詔を発しました「昔、我が太宗(西漢文帝)は丕顕(顕著。英明)の徳を上下に与え(假于上下)、倹約よって民を大切にしたので(倹以恤民)、政が康乂(平安。安治)に至った。しかし朕は政事を行っても英明ではないので(秉事不明)、政がその道を失い、天地が譴怒して大変(天災。大変異)が頻繁に現れている。春夏に旱が連なり、寇賊がますます増えて(彌繁)、元元(民衆)が害を被っているので、朕は甚だ憐憫しており(朕甚愍之)、海内と共に洗心更始することを嘉する(心を洗ってやり直すことを奨励する)。よって天下に大赦し、殊死(死刑)以下、謀反大逆の諸犯で赦(大赦)を得るべきではない者も、皆これを赦除(赦免)する。年が八十以上の民に米一斛、肉二十斤、酒五斗を下賜し、九十以上の民には一人当たり帛二匹と絮(綿)三斤を加賜する。」

こうして大赦が行われました。
 
順帝は自ら徳陽殿の東廂に露坐(屋根が無い場所に座ること)して雨を請いました。
資治通鑑』胡三省注によると、徳陽殿は北宮掖庭後宮の中にあります。
 
尚書周挙の才学が優深だったため、順帝が特別に策問を加えました。

周挙が答えました「臣が聞いたところでは、陰陽が閉隔(隔絶)したら二気が否塞(塞がって通らなくなること)します。陛下は文帝、光武の法を廃し、亡秦による奢侈の欲を踏襲しているため、内に怨女が積もり、外には曠夫(未婚の男)がいます。枯旱(旱害)以来、一年を満たしますが(彌歴年歳)、まだ陛下が過失を改めた効果(改過之效)を聞くことなく、至尊(陛下)を徒労させて風塵に暴露しているだけで(徳陽殿で露坐していることを指します)、誠に益がありません。陛下はただその華(見た目)に務めるだけで、その実を尋ねて(求めて)いません。これは木に登って魚を求め、後退しながら前に進むことを求めるようなものです(猶縁木希魚,卻行求前)。誠に信を推して政事を革新し(推信革政)、道を崇めて混乱を(正道に)変え(崇道変惑)後宮の不御の女(御幸がない宮女)を出し、太官の重膳(豊富な料理)の費を除くべきです。『易伝』はこう言っています『陽が天に感じさせたら(天は)一日も経たずに反応する(原文「陽感天不旋日」。『資治通鑑』胡三省注によると、「陽」は天子を指します。「天子が善を行って天に感応させたら、天がすぐに報いを与える」という意味です)。』陛下の留神裁察(留意して考察決断すること)を願います。」

 
後に順帝が再び周挙を召し、直接政治の得失について問いました。周挙が答えました「官人に対して慎重になり(慎重に官人を選び)、貪汙(貪汚)を去らせ、佞邪を遠ざけるべきです。」
順帝が問いました「官にいて貪汙、佞邪の者とは誰を指すのだ(為誰乎)?」
周挙が答えました「臣は下州から抜擢されて機密(中枢)に備えられたので(原文「臣従下州超備機密」。『資治通鑑』胡三省注によると、周挙は冀州刺史から尚書になりました)、群臣を見別けるには足りません。但し、公卿大臣でしばしば直言している者が忠貞です。阿諛苟容(阿諛追従)している者が佞邪です。」
 
太史令張衡も上書しました「前年、京師の地が震えて土が裂けましたが、裂とは威が分かれることであり、震とは民が混乱すること(民擾)です。聖思(皇帝の思い)が厭倦(倦怠)して制(政治。支配)を専断せず(制不専己)、恩を割くことが忍びず(恩不忍割)、衆(衆人。群臣)と威(威権。権勢)を共にしていることを心中で懼れます。威とは(他者と)分けてはならず、徳とは(他者と)共にしてはならないものです。陛下が思惟(思考)し、古を考察して旧制に倣い(稽古率旧)、刑徳八柄を天子から離れさせないこと(原文「勿使刑徳八柄不由天子」。『資治通鑑』胡三省注によると、帝王は「八柄」によって群臣を制御しました。「爵」によって貴を制御し、「禄」によって富を制御し、「予(授与。賞与)」によって幸を制御し、「置(任官)」によって行(行動)を制御し、「生」によって福を制御し、「奪」によって貧を制御し、「廃(罷免)」によって罪を制御し、「誅」によって過(過失)を制御します」)を願います。そうすれば神の望みが充たされ(神望允塞)、災が消えて至らなくなるでしょう。」
 

中興(東漢建国)以来、儒者が争って『図緯(預言書。『資治通鑑』胡三省注によると、『緯』は『七緯』を指します。『七緯』は『易緯』『尚書(書緯)』『詩緯』『礼緯』『楽緯』『孝経緯』『春秋緯』の七種類の緯書で、『易緯』には『稽覧図』『乾鑿度』『坤霊図』『通卦験』『是類謀』『辯終備』が含まれ、『書緯』には『璇璣鈐』『考霊耀』『刑徳放』『帝命験』『運期授』が含まれ、『詩緯』には『推度災』『氾歴樞』『含神霧』が含まれ、『礼緯』には『含文嘉』『稽命徵』『斗威儀』が含まれ、『楽緯』には『動声儀』『稽耀嘉』『汁国徵』が含まれ、『孝経緯』には『援神契』『鉤命決』が含まれ、『春秋緯』には『演孔図』『元命包』『文耀鉤』『運斗樞』『感精符』『合誠図』『考異郵』『保乾図』『漢含孳』『佑助期』『握誠図』『潛潭巴』『説題辞』が含まれます)』を学んでいたため、張衡はこれに対しても上書しました「『春秋元命包』に公輸班と墨翟の記述があり、この事は戦国(時代)に発生しましたが、また別の場所では益州について言及しています。益州の設置は漢世になってからのことです(西漢武帝益州を置きました)。また、劉向父子が祕書(皇室の蔵書)を領校(校正の指揮をとること)して九流を閲定(審査確定)しましたが、その中に『讖録』はありませんでした(九流は儒家道家陰陽家、法家、名家、墨家縦横家、雑家、農家を指します)。ここから『図讖』は哀平の際西漢哀帝平帝の時代)に成立したのだと分かります。全て虚偽の徒が世を欺いて利益を得ようとしたのであり(要世取資)、欺瞞が明らかなのに糾禁(糾弾禁止)されませんでした(欺罔較然莫之糾禁)。しかも、律暦、卦候(『易』の卦によって気候の変化を理解する方法。または卦と気候を組み合わせた占い)、九宮(天体の動向を元にした占い)、風角(四方の風を元に吉凶を判断する占い)はしばしば徵效(応験。預言に符合する出来事)があったのに、世は敢えてこれらを学ぼうとせず、競って不占の書(占の効果がない書。図讖の書を指します)を称賛しています。これは画工(画家)が犬馬を描くのを苦手とし、鬼魅を描くのを好むようなものです。誠に実在する物事は形にするのが難しいのに対し、虚偽は苦心する必要がありません(原文「譬猶画工悪図犬馬而好作鬼魅,誠以實事難形而虛僞不窮也」。『資治通鑑』胡三省注が『韓非子』を元に解説しています。ある賓客が斉王の画者(画家)に問いました「何を描くのが難しいですか(画孰難)?」画者が答えました「狗()や馬が最も難しいです。」賓客が問いました「何が易しいですか(孰易)?」画者が言いました「鬼魅が最も易しいです。狗や馬は人が知っているものなので難しいです。鬼魅は形がないので易しいです」)。よって『図讖』を收藏して全て禁絶するべきです(一禁絶之)。そうすれば朱と紫の違いが鮮明になり(朱紫無所眩)、典籍に瑕玷(欠陥、汚れ)が無くなります。」

 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、鍾羌の良封等が再び隴西や漢陽を侵しました。

順帝が詔を発して元護羌校尉馬賢を謁者に任命し、諸種(諸羌)を鎮撫させました。

 
冬十月、護羌校尉馬続が兵を送って良封を撃ち、これを破りました。
 
[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』と『資治通鑑』からです。

十一月壬寅(十一日)、司徒劉崎と司空孔扶を罷免しました。

周挙の「貪汚や佞邪の臣を退けるべきだ」という言を用いたためです。
 

乙巳(十四日)、大司農南郡の人・黄尚を司徒に、光禄勳河東の人王卓を司空に任命しました。

『孝順孝沖孝質帝紀』の注によると、黄尚は字を伯河といい、南郡の人です。王卓は字を仲遼といい、河東解の人です。

 

[] 『後漢書孝順孝沖孝質帝紀』からです。

丙午(十五日)、武都塞上に駐屯していた羌人(屯羌)と塞外の羌人(外羌)が屯官を攻めて破り、人畜(民や家畜)を駆逐略奪しました

 
[] 『資治通鑑』からです。

耿貴人(安帝の嫡母。清河孝王劉慶の正妻耿姫)がしばしば耿氏のために(封侯を)請いました。

順帝は耿宝の子耿箕を牟平侯に封じて耿宝の跡を継がせました(以前、牟平侯耿宝は大将軍にもなりましたが、安帝延光四年125年)、閻氏によって亭侯に落とされ、自殺しました。今回、耿宝の子耿箕が牟平侯に戻されました)

 
 
 
次回に続きます。