東漢時代 李固の対策
東漢時代201 順帝(十四) 龐参 133年(3)
妃后の家に完全な者(安全だった者。天寿を全うできた者)が少ないのは、天性当然のことなのでしょうか(豈天性当然)。ただ、爵位が尊顕になり、権柄を専断してからも(顓総権柄)、天道が盈(満ちること)を嫌うのに、自ら制御することを知らなかったので(不知自損)、顛仆(転倒。顛覆)を招いたのです。先帝が閻氏を寵遇して位号(を立てるの)が速すぎたため(位号太疾)、(閻氏は)わずかな期間で禍を受けました(其受禍曾不旋時)。『老子』はこう言っています『進むのが鋭い者は退くのも速い(其進鋭者其退速也)。』今、梁氏の戚(親族)が椒房(皇后)となりました。礼においては(皇后の父母は)臣下にしないものなので(礼所不臣)、(梁商を)高爵によって尊ぶのはまだ当然といえます(尚可然也)。しかし、子弟群従まで栄顕を兼加するのは、永平・建初(明帝と章帝の時代)の故事では恐らくなかったことです(殆不如此)。歩兵校尉・梁冀および諸侍中を黄門の官に還らせ、権(権勢)を外戚から去らせて政(政権)を国家に帰らせるべきです。こうするのは素晴らしいことではありませんか(原文「豈不休乎」。「休」は「美」です)。
また、侍中、尚書、中臣(宮中の臣)の子弟が官吏になったり孝廉として選ばれることを詔書によって禁止したのは(または「侍中、尚書、中臣の子弟が官吏になって孝廉を選ぶことを禁止したのは」。原因「禁侍中、尚書、中臣子弟不得為吏察孝廉者」)、(彼等が)威権を持っており、請託を容れてしまうからです(皇帝の近臣として権力を握っており、個人的な依頼を受け入れて不正を行う可能性があるからです)。中常侍(宦官)は日月(皇帝)の側にいて声勢が天下を振るわせており、子弟が禄任(登用)されて限極(限度)がなく、たとえ外見は謙黙(謙遜沈黙)に託して(謙黙の姿をして)州郡に干渉していなくても、諂偽(阿諛・欺瞞)の徒が声望を聞いて(子弟を)薦めています(望風進挙)。今後は常禁(禁令)を設けて(中常侍も)中臣(中朝の臣。侍中、尚書、宮中の臣)と同じようにするべきです。昔、館陶公主が子のために郎(の位)を求めましたが、明帝は許可せず、銭千万を下賜しました。厚賜を軽んじて薄位を重んじたのは、官人が才を失ったら害が百姓に及ぶからです。(臣が)窺い聞いたところ、長水司馬(『資治通鑑』胡三省注によると、北軍五営校尉にそれぞれ司馬がおり、秩は千石でした)・武宣(人名です)、開陽城門候(『資治通鑑』胡三省注によると、雒陽城には十二門があり、各門に一人の候がいました。秩は六百石です。開陽門は巳(東南)に位置します。開陽門が完成したばかりでまだ命名されていない頃、一本の柱が楼上に飛んで来ました。ちょうど琅邪開陽県が上書して「県の南城門から一柱が飛び去りました」と報告したため、光武皇帝が確認させると、雒陽に飛んで来た柱が開陽県の柱でした。光武帝は柱を堅く縛り付けてその時の歳月を彫り、「開陽」を門の名にしました)・羊迪等は他に(特別な)功徳が無いのに、任命されてすぐに真官になりました(原文「初拝便真」。『資治通鑑』胡三省注によると、本来、千石・六百石の中都官はまず「守(代理)」に任命され、満一年経ってから「真(真官)」になりました)。これは小失(小さな過ち)ですが、徐々に旧章を破壊しています。先聖の法度は堅守するべきであり、政教が一度倒れたら百年経っても恢復しません(政教一跌百年不復)。『詩(大雅・生民之什)』はこう言っています『上帝が反覆したら下民が疲弊して病になる(上帝板板,下民卒癉)。』これは周王が祖先の法度を変えたために、下民が全てこれに病んだことを風刺しています。
今、陛下に尚書がいるのは、天に北斗があるようなものです。斗は天の喉舌であり、尚書もまた陛下の喉舌となっています。斗は元気を斟酌(掌握。考慮)して四時(四季)を運平(調整)しています(『資治通鑑』は「運乎四時」としていますが、『後漢書・李杜列伝(巻六十三)』では「運平四時」です。『資治通鑑』の誤りです)。尚書は王命を出納(伝達)して四海に政令を頒布し(賦政四海)、権が尊くて勢が重く、責(責任)が帰す所です。もし平心(公平な心)ではなかったら、災眚(災難)が必ず至るので、誠に慎重にその人を選ぶことで、聖政を輔佐させるべきです(宜審択其人以毗聖政)。
今、陛下と天下を共にしている者は、外には公卿・尚書が、内には常侍・黄門がおり、一門の内(中)、一家の事のようです。安泰な時はその福慶を共にし、危険な時は禍敗を共にすることになります(安則共其福慶,危則通其禍敗)。刺史・二千石は外では職事を統べ(朝廷を代表して政務を統括し)、内では法則を受けています(朝廷の法によって制御されています)。表面が曲がっていたら影も必ず斜めになり(表曲者景必邪)、源が清らかなら流れも必ず潔くなります(源清者流必潔)。樹木の根元を叩いたら百枝が全て動くのと同じです。このように話すと(このようであるので。原文「由此言之」)、本朝(朝廷。中央)の号令がどうして蹉跌(転倒。失敗)していいのでしょうか。天下の紀綱(綱領、法度。または管理)は当今の急務です。人君に政があるのは(人君が政事を行っているのは)、水(河川)に隄防があるようなものです。隄防が完全なら、たとえ雨水霖潦(「霖潦」は長雨、または雨によって溜まった水です)に遭ったとしても変異を為すことはありません。政教が一度立ったら、暫く凶年(不作)に遭ったとしても、憂いとするには足りません。しかし、もしも隄防を穿って水を漏らしたら、万夫が同力(協力)しても、復救(救復。復旧)することはできません。政教が一度壊れたら、賢智が馳騖(奔走)しても、復還(恢復)することはできません。今、隄防は堅固ですが、徐々に孔穴ができています。これを一人の身に譬えるなら、本朝は心腹で、州郡は四支(四肢)に当たります。心腹が痛ければ四支が挙がりません。よって臣が憂いとするのは腹心の疾であり、四支の患ではありません。もし隄防を堅くし、政教に務め、先に心腹を安んじさせて本朝を整理すれば、たとえ寇賊や水旱の変があっても、意に介すには足りません。もしも隄防が壊漏し、心腹に疾があったら、たとえ水旱の災がなくても、天下はやはりこれを憂いとします(天下固可以憂矣)。
明帝以後、延平(殤帝の年号)に至るまで、宦官の任用が徐々に拡大し、定員も中常侍は十人に、小黄門は二十人に増やされました。また、冠の装飾も銀璫・左貂から金璫・右貂に変わり、卿署(九卿の官署。外朝)の職を兼任する者もいました。