東漢時代 李固の対策

東漢順帝陽嘉二年133年)六月丁丑(初八日)、雒陽宣徳亭の地が裂けたため、順帝が敦樸の士を招いて対策(皇帝の問いに答えること)させました。

東漢時代201 順帝(十四) 龐参 133年(3)


李固が答えました「以前、孝安皇帝が旧典を変乱し、阿母に封爵したため、妖孽が造られて嫡嗣(後嗣)が改乱され、聖躬(皇帝の身)を狼狽(混乱、困窮)させて(陛下)自ら艱(困難)に遭遇させることになりました。今は既に困殆(困苦危難)から抜け出し、龍が興きて位に即いたので、天下が喁喁(魚が上を向いて口を開く様子。期待や渇望の意味です)として風政(政治の教化。善政)を属望(希望、期待)しています。弊害が重なった後は、中興をもたらしやすいものなので(積敝之後易致中興)、誠に沛然(寛広な様子)として善道を思慮するべきです。しかし論者はまだ『今の状況は以前と同じだ(方今之事復同於前)』と言っており、臣は伏して草沢(民間)で痛心傷臆(心を痛めること)しています。
漢興以来、実に三百余年が経ち、賢聖が相次いで継承して十八主になりますが(『資治通鑑』胡三省注によると、高帝、恵帝、文帝、景帝、武帝、昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝、光武帝、明帝、章帝、和帝、殤帝、安帝と順帝で十八主です)、阿乳の恩がなく、貴爵の寵を忘れたことがあったでしょうか(乳母の恩を感じず、尊貴な爵位を与えて寵愛するという方法を忘れた帝王がいたでしょうか。原文「豈無阿乳之恩,豈忘貴爵之寵」)。しかし上は天威を畏れ、伏しては経典を根拠とし(俯案経典)、義によってそうするべきではないと知っていたので(知義不可)、封爵しなかったのです。今、宋阿母には大功と勤謹(勤労)の徳がありますが、賞賜を加えるだけでもその労苦に酬いるには足ります。土地を割いて国を開くに至るのは、実に旧典から乖離しています。聞くところによると、阿母の体性(性格。本性)は謙虚なので、必ず遜譲(謙遜、辞退)するはずです。陛下は辞国の高(封国を辞退する崇高な態度)を許し、万安の福を成就させるべきです。

妃后の家に完全な者(安全だった者。天寿を全うできた者)が少ないのは、天性当然のことなのでしょうか(豈天性当然)。ただ、爵位が尊顕になり、権柄を専断してからも(顓総権柄)、天道が盈(満ちること)を嫌うのに、自ら制御することを知らなかったので(不知自損)、顛仆(転倒。顛覆)を招いたのです。先帝が閻氏を寵遇して位号(を立てるの)が速すぎたため位号太疾)(閻氏は)わずかな期間で禍を受けました(其受禍曾不旋時)。『老子』はこう言っています『進むのが鋭い者は退くのも速い(其進鋭者其退速也)。』今、梁氏の戚(親族)が椒房(皇后)となりました。礼においては(皇后の父母は)臣下にしないものなので(礼所不臣)(梁商を)高爵によって尊ぶのはまだ当然といえます(尚可然也)。しかし、子弟群従まで栄顕を兼加するのは、永平建初(明帝と章帝の時代)の故事では恐らくなかったことです(殆不如此)。歩兵校尉梁冀および諸侍中を黄門の官に還らせ、権(権勢)外戚から去らせて政(政権)を国家に帰らせるべきです。こうするのは素晴らしいことではありませんか(原文「豈不休乎」。「休」は「美」です)

また、侍中、尚書、中臣(宮中の臣)の子弟が官吏になったり孝廉として選ばれることを詔書によって禁止したのは(または「侍中、尚書、中臣の子弟が官吏になって孝廉を選ぶことを禁止したのは」。原因「禁侍中、尚書、中臣子弟不得為吏察孝廉者」)(彼等が)威権を持っており、請託を容れてしまうからです(皇帝の近臣として権力を握っており、個人的な依頼を受け入れて不正を行う可能性があるからです)中常侍(宦官)は日月(皇帝)の側にいて声勢が天下を振るわせており、子弟が禄任(登用)されて限極(限度)がなく、たとえ外見は謙黙(謙遜沈黙)に託して(謙黙の姿をして)州郡に干渉していなくても、諂偽(阿諛欺瞞)の徒が声望を聞いて(子弟を)薦めています(望風進挙)。今後は常禁(禁令)を設けて中常侍も)中臣(中朝の臣。侍中、尚書、宮中の臣)と同じようにするべきです。昔、館陶公主が子のために郎(の位)を求めましたが、明帝は許可せず、銭千万を下賜しました。厚賜を軽んじて薄位を重んじたのは、官人が才を失ったら害が百姓に及ぶからです。(臣が)窺い聞いたところ、長水司馬(『資治通鑑』胡三省注によると、北軍五営校尉にそれぞれ司馬がおり、秩は千石でした)武宣(人名です)、開陽城門候(『資治通鑑』胡三省注によると、雒陽城には十二門があり、各門に一人の候がいました。秩は六百石です。開陽門は巳(東南)に位置します。開陽門が完成したばかりでまだ命名されていない頃、一本の柱が楼上に飛んで来ました。ちょうど琅邪開陽県が上書して「県の南城門から一柱が飛び去りました」と報告したため、光武皇帝が確認させると、雒陽に飛んで来た柱が開陽県の柱でした。光武帝は柱を堅く縛り付けてその時の歳月を彫り、「開陽」を門の名にしました)羊迪等は他に(特別な)功徳が無いのに、任命されてすぐに真官になりました(原文「初拝便真」。『資治通鑑』胡三省注によると、本来、千石六百石の中都官はまず「守(代理)」に任命され、満一年経ってから「真(真官)」になりました)。これは小失(小さな過ち)ですが、徐々に旧章を破壊しています。先聖の法度は堅守するべきであり、政教が一度倒れたら百年経っても恢復しません(政教一跌百年不復)。『詩(大雅生民之什)』はこう言っています『上帝が反覆したら下民が疲弊して病になる(上帝板板,下民卒癉)。』これは周王が祖先の法度を変えたために、下民が全てこれに病んだことを風刺しています。

今、陛下に尚書がいるのは、天に北斗があるようなものです。斗は天の喉舌であり、尚書もまた陛下の喉舌となっています。斗は元気を斟酌(掌握。考慮)して四時(四季)を運平(調整)しています(『資治通鑑』は「運乎四時」としていますが、『後漢書李杜列伝(巻六十三)』では「運平四時」です。『資治通鑑』の誤りです)尚書は王命を出納(伝達)して四海に政令を頒布し(賦政四海)、権が尊くて勢が重く、責(責任)が帰す所です。もし平心(公平な心)ではなかったら、災眚(災難)が必ず至るので、誠に慎重にその人を選ぶことで、聖政を輔佐させるべきです(宜審択其人以毗聖政)

今、陛下と天下を共にしている者は、外には公卿尚書が、内には常侍黄門がおり、一門の内(中)、一家の事のようです。安泰な時はその福慶を共にし、危険な時は禍敗を共にすることになります(安則共其福慶,危則通其禍敗)。刺史二千石は外では職事を統べ(朝廷を代表して政務を統括し)、内では法則を受けています(朝廷の法によって制御されています)。表面が曲がっていたら影も必ず斜めになり(表曲者景必邪)、源が清らかなら流れも必ず潔くなります(源清者流必潔)。樹木の根元を叩いたら百枝が全て動くのと同じです。このように話すと(このようであるので。原文「由此言之」)、本朝(朝廷。中央)の号令がどうして蹉跌(転倒。失敗)していいのでしょうか。天下の紀綱(綱領、法度。または管理)は当今の急務です。人君に政があるのは(人君が政事を行っているのは)、水(河川)に隄防があるようなものです。隄防が完全なら、たとえ雨水霖潦(「霖潦」は長雨、または雨によって溜まった水です)に遭ったとしても変異を為すことはありません。政教が一度立ったら、暫く凶年(不作)に遭ったとしても、憂いとするには足りません。しかし、もしも隄防を穿って水を漏らしたら、万夫が同力(協力)しても、復救(救復。復旧)することはできません。政教が一度壊れたら、賢智が馳騖(奔走)しても、復還(恢復)することはできません。今、隄防は堅固ですが、徐々に孔穴ができています。これを一人の身に譬えるなら、本朝は心腹で、州郡は四支(四肢)に当たります。心腹が痛ければ四支が挙がりません。よって臣が憂いとするのは腹心の疾であり、四支の患ではありません。もし隄防を堅くし、政教に務め、先に心腹を安んじさせて本朝を整理すれば、たとえ寇賊や水旱の変があっても、意に介すには足りません。もしも隄防が壊漏し、心腹に疾があったら、たとえ水旱の災がなくても、天下はやはりこれを憂いとします(天下固可以憂矣)

宦官を罷退(罷免)して権重を去らせ、常侍を二人だけ置き、方直で徳がある者に左右で省事(政務を処理すること)させ、小黄門を五人だけ置き、才智があって閒雅(優雅)な者に殿中で給事(事務を処理すること)させるべきです。こうすれば論者が厭塞(意見を塞ぐこと。または満足すること)して升平(泰平)を招くことができます(升平可致也)。」
 
資治通鑑』胡三省注が宦官の歴史をまとめているので、以下、抜粋します。
漢は秦の制度を継承して中常侍の官を置きましたが、士人も任用していました。
高后が称制するようになると、張卿が大謁者になり、臥内(臥室)を出入りして詔命を伝達しました。
文帝の時代は趙談や北宮伯子が寵愛され、武帝は李延年を寵愛しました。
武帝はしばしば後庭で宴を開いたり秘かに離館で遊んだため、機事(大事)を上奏する時は多くが宦人によって管理されました。
元帝の世になると、史游が黄門令になり、身を謹んで忠を納めたため益がありました。しかし後に弘恭、石顕が佞険によって出世し、蕭望之と周堪の禍を招いて帝徳を傷つけました。
中興の初めになってから、宦官(皇帝の身辺に仕える官で、本来は士人も含まれました)は全て閹人(去勢した男)を用いるようになりました。
永平年間(明帝時代)、始めて定員を置きました。中常侍は四人、小黄門は十人です。
和帝が即位した時は幼弱だったため、竇憲兄弟が威権を専断しており、帝と共に生活しているのは閹宦しかいませんでした。そこで鄭衆が禁中で首謀してついに大憝(大悪)を除きました。鄭衆は封爵を受けて公卿の位(大長秋)に上り、ここから中官(宮内の官。宦官)の権勢が盛んになります。

明帝以後、延平(殤帝の年号)に至るまで、宦官の任用が徐々に拡大し、定員も中常侍は十人に、小黄門は二十人に増やされました。また、冠の装飾も銀璫左貂から金璫右貂に変わり、卿署(九卿の官署。外朝)の職を兼任する者もいました。

鄧后は女主として政治に臨んだため、刑人(宦官)を用いなければなりませんでした(外朝の士は自由に内宮を往来できないので、宦官が間に入る必要があります)。ここから宦官は手に王爵を握って口に天憲を銜えるようになり(王爵を操作する権限を持って天子の法令を口にするようになり)、掖庭永巷後宮。女官や妃嬪が住む場所)の職、閨牖房闥(宮内の寝室)の任ではなくなりました。