東漢時代224 桓帝(二) 李固・杜喬の死 147年(2)

今回は東漢桓帝建和元年の続きです。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
八月乙未(十八日)、梁氏を皇后に立てました。
 
梁氏は梁太后の妹です。『後漢書・皇后紀下』は「建和元年147年。本年)六月に始めて掖庭に入り、八月に皇后に立った」としています。
後漢書・孝桓帝紀』は「七月乙未」に「皇后・梁氏を立てた」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、この年の七月は「戊申朔」なので、「乙未」がありません。「八月乙未」が正しいはずです。
 
梁冀が厚礼を用いて梁皇后を迎えようとしました。
杜喬が旧典に則るべきだと主張しましたが、梁冀は聴き入れませんでした。
 
資治通鑑』胡三省注によると、漢代に皇后を迎える時は聘礼として黄金万斤を下賜しましたが、呂后が恵帝のために魯元公主(高帝と呂后の娘)の娘を皇后として迎えた時は特別に二万斤を下賜しました。
梁氏が桓帝の皇后になった時も、恵帝が皇后を迎えた時の故事に則って黄金二万斤を下賜し、旧制に基いて雁、璧、乗馬(四頭の馬)、束帛を納采(聘礼)にしました。
 
[十四] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
梁冀が杜喬に頼んで氾宮(氾が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、元は凡氏といいましたが、秦の乱に遭遇して氾水に批難したため、地名を氏にしました)尚書に挙げさせようとしました。
しかし杜喬は臧罪(貪汚の罪)を理由に氾宮を用いませんでした。
この後、杜喬は日に日に梁冀の意見と対立するようになります(由是日忤於冀)
 
九月丁卯(二十一日)、京師で地震がありました。
杜喬が災異を理由に策免されました。
 
冬十月、司徒・趙戒を太尉に、司空・袁湯を司徒に、元太尉・胡広を司空に任命しました。
 
[十五] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
十一月、済陰が「五色の大鳥が巳氏(県名)に現れた」と報告しました。
『孝桓帝紀』の注は「当時の人は(五色の大鳥を)鳳皇(鳳凰)だと考えた。政事が衰缺(衰敗)し、梁冀が専権していたので、全て羽孽(鳥や虫の異常現象)である」と書いています。
 
[十六] 『後漢書・孝桓帝紀』からです。
戊午、天下の死罪を一等減らして辺境を守らせました。
 
[十七] 『後漢書・孝桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
宦者・唐衡と左が共に桓帝の前で杜喬と李固を讒言しました「陛下が以前、即位することになった時、杜喬と李固が抗議(反対)し、漢の宗祀を奉じるには堪えられないと主張しました。」
桓帝は杜喬と李固を怨むようになりました。
 
この頃(十一月)、清河の人・劉文と南郡の妖賊・劉鮪が交流し、「清河王が天下を統べるべきだ(清河王当統天下)」と妄言して劉蒜を擁立しようとしました。
しかし計画が発覚したため、劉文等は清河国の相・謝暠を脅してこう言いました「王を立てて天子とし、暠(あなた)を公(三公)にするべきだ。」
謝暠が劉文等を罵ったため、劉文は謝暠を刺殺しました。
 
朝廷は劉文、劉鮪を逮捕して誅殺しました。
有司(官員)が上奏して劉蒜も弾劾したため、劉蒜は罪に坐して爵位を尉氏侯に落とされ、桂陽に遷されて自殺しました。
 
梁冀がこの事件を利用して李固と杜喬を誣告しました。李固等が劉文、劉鮪等と交わっていたと訴え、逮捕して罪を調査するように請います。
しかし梁太后はかねてから杜喬の忠心を知っていたため、許可しませんでした。
後漢書・李杜列伝(巻六十三)』は「梁太后はかねてから杜喬の忠心を知っていたので、策免しただけだった」と書いていますが、杜喬はこれ以前に免官されています。『資治通鑑』胡三省注は「列伝の誤り」と解説しています。
 
太后が杜喬の逮捕に同意しなかったため、梁冀は李固を逮捕して獄に下しました。
すると李固の門生である渤海の人・王調が刑具を身に着けて上書し(貫械上書)、李固の冤罪を証明しました。
河内の人・趙承等数十人も要鈇鑕(腰鈇鑕。腰斬で使う刑具)を準備し、宮闕を訪ねて訴えます。
そのため梁太后が詔を発して李固を釈放させました。
 
李固が獄から出る時、京師の市里で人々が皆、万歳を唱えました。
それを聞いた梁冀は大いに驚き、李固の名徳がいずれは自分の害になることを畏れました。そこで改めて前事(劉文、劉鮪と通じた罪)を上奏して李固を弾劾します。
大将軍長史・呉祐が李固の冤罪を悲痛して梁冀と争いましたが、梁冀は怒って従いませんでした。
従事中郎・馬融が中心になって梁冀のために章表(李固を訴える上奏文)を作りました。梁冀と呉祐が争った時、馬融もその場にいたため、呉祐が馬融に言いました「李公の罪は卿の手によって形成された。李公がもし誅されたら、卿は何の面目があって天下の人を視るのか(天下の人に会うのか)。」
梁冀は怒って立ち上がり、室内に入りました。
呉祐もそのまま立ち去ります。
 
李固は獄中で死にました。
死に臨んで胡広と趙戒に書を送ります「固(私)は国の厚恩を受けたので、股肱(の力)を尽くして死亡を顧みず、志は王室を扶持(補佐)して文・宣のように隆盛させようと欲した(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。西漢文帝と宣帝は群臣によって迎え入れられ、漢を興隆させました。李固は桓帝も文帝や宣帝のようになることを望みました)。どうして一朝にして梁氏が迷謬(惑乱・昏迷)し、公等が曲従して、吉を凶に変え、成功するはずの事を失敗させることになると予想できただろう(何図一朝梁氏迷謬,公等曲従,以吉為凶成事為敗乎)。漢家の衰微はここから始まった。公等は主の厚祿を受けながら、倒れても助けず、大事を転覆させた(顚而不扶傾覆大事)。後の良史がどうして(公等を)庇うだろう(後之良史豈有所私)。固(私)の身は既に終わったが、義においては得るものがあった。これ以上何を言うことがあるだろう(固身已矣,於義得矣,夫復何言)。」
胡広と趙戒は書を得て悲痛・慚愧しましたが、長短して涙を流すだけでした。
 
梁冀が人を送って杜喬を脅迫し、「早く宜に従えば(原文「早従宜」。「従宜」は「自尽」の意味です)、妻子は助かることができる(妻子可得全)」と言いましたが、杜喬は従いませんでした。
翌日、梁冀が騎馬を派遣して杜喬の家の門に至らせましたが、哀哭する声が聞こえないため(杜喬が自殺していなかったため)、梁冀は梁太后に報告してから杜喬を逮捕させました。
杜喬も獄中で死にました。
 
『孝桓帝紀』の注によると、順帝の末年に京都で童謡が流行りました「弦のようにまっすぐなら道端で死ぬ。鉤のように曲がっていたら逆に封侯される(直如弦,死道辺。曲如鉤,反封侯)」という内容です。「鉤のように曲がっている」のは梁冀、胡広等を指し、「弦のようにまっすぐ」というのは李固、杜喬等を指します。
 
本文に戻ります。
梁冀は李固と杜喬の死体を城北の四衢(四方に通じる大通り。『資治通鑑』胡三省注によると、「城北」は夏門亭を指します)に曝し、令を発して「敢えて臨(哀哭)する者には罪を加える(有敢臨者加其罪)」と宣言しました。
 
李固の弟子で汝南の人郭亮が、まだ冠礼も行っていないのに(尚未冠)、左手に章(上奏文)と鉞(斧)を持ち、右手に鈇鑕(腰斬に使う刑具)を持って宮闕を訪ね、上書して李固の死体を回収することを乞いました。
しかし朝廷からの回答がないため、南陽の人董班と共に城北に行って臨哭し、喪を守って去りませんでした。
夏門亭長が叱咤して言いました「卿曹(卿等)は何という腐生か(卿曹何等腐生)!公けに詔書を犯し、有司(官員)を侵して試すつもりか(公犯詔書欲干試有司乎)!」
郭亮が言いました「義によって動かされたのに、どうして性命を知るのでしょう(どうして命を顧みるのでしょう。原文「豈知性命」)。どうして(あなたは)死によって(私を)懼れさせるのでしょうか(何為以死相懼邪)!」
これを聞いた梁太后は二人を赦して誅殺しませんでした。
 
資治通鑑』は書いていませんが、『後漢書李杜列伝』によると、(董班が李固の)死体から離れようとしなかったため(殉尸不肯去)太后がこれを憐れんで、襚斂(死体に服を着せて棺に収めること)して故郷に埋葬することを許しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
杜喬の掾を勤めた陳留の人楊匡も号哭して夜間も急行しました(星行)。雒陽に至ると以前使っていた赤幘(赤い頭巾。『資治通鑑』胡三省注によると、官吏は赤幘を被りました)を被って夏門亭吏のふりをし、死体を守って十二日間を過ごします(守護尸喪積十二日)
都官従事(『資治通鑑』胡三省注によると、司隸校尉の属官です。中都官で法を守らない者を検挙しました)が楊匡を逮捕して報告しましたが、梁太后は釈放させました。
そこで楊匡は宮闕を訪ねて上書しました。李杜二公を故郷に埋葬させるため、二人の骸骨を乞います。
太后はこれを許可しました(楊匡が二人の死体を求めたのと、郭亮と董班が城北で哀哭したのは同じ時期の事です。李固の死体は董班が、杜喬の死体は楊匡が引き取ることになりました)
楊匡は杜喬の喪を家に還らせ(『資治通鑑』胡三省注によると、杜喬の家は河内にありました)、葬儀が終わると行服(喪に服すこと)しました。
その後、楊匡、郭亮、董班とも身を隠し、終生出仕しませんでした。
 
梁冀が呉祐を朝廷から出して河間相にしましたが、呉祐は自ら官を免じて帰り、最後は家で死にました。
 
梁冀は劉鮪の乱によって朱穆の進言(前年参照)を思い出しました。そこで种暠を招聘して従事中郎に任命し、欒巴を推挙して議郎にしました。
また、朱穆を高第(成績が優秀な者。『資治通鑑』胡三省注によると、大将軍府掾の高第です)として推挙し、侍御史にしました。
 
[十八] 『後漢書桓帝紀』からです。
陳留の盗賊李堅が皇帝を自称しましたが、誅に伏しました。
『孝桓帝紀』の注には「『東観記』は『江舍および李堅等(が誅に伏した)』と書いている」とあります。しかし『欽定四庫全書東観漢記』ではこの記述が見られません。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
この年、南匈奴単于兜楼儲(呼蘭若尸逐就単于が死に、伊陵尸逐就単于車児が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。