東漢時代230 桓帝(八) 梁冀と梁不疑 151年(1)

今回は東漢桓帝元嘉元年です。二回に分けます。
 
東漢桓帝元嘉元年
辛卯 151
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月朔、群臣が朝会に参加した際、大将軍梁冀が剣を帯びて禁中に入りました。
すると、尚書蜀郡の人張陵が叱咤して退出させ(呵叱令出)、虎賁と羽林に命じて剣を奪わせました。
梁冀が跪いて謝罪しましたが、張陵は相手にせず、即刻、梁冀を弾劾する上奏を行い、廷尉に罪を裁かせるように請います。
桓帝は詔を発して梁冀に一年の俸禄で贖罪させました。
この一件は百僚を粛然とさせました。
 
以前、河南尹梁不疑(梁冀の弟)が張陵を孝廉に推挙したため、この件があってから張陵にこう言いました「昔、君を挙げたが、ちょうどその事によって自らを(梁氏を)罰することになってしまった(適所以自罰也)。」
張陵が言いました「明府は陵(私)を不肖とみなさず、誤って抜擢任命を受けさせたので(誤見擢序)、今回、公憲(国法)を伸長させて私恩に報いたのです。」
梁不疑は慚愧の色をうかべました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
京師で疾疫(疫病)が流行りました。
光禄大夫を派遣し、医薬を持って案行(巡行)させました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸酉(十六日)、天下に大赦して和平二年から元嘉元年に改元しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
梁不疑は経書を好み、喜んで士人を待遇しました。
梁冀はこれを嫌い、梁不疑を光禄勳に遷して自分の子梁胤を河南尹にしました。
 
梁胤はこの時十六歳で、容貌が甚だ劣っており、冠帯もまともに身につけることができず(容貌甚陋,不勝冠帯)、道で梁胤を見た者で、嘲笑しない者はいませんでした。
 
梁不疑は兄弟の間に対立があることを恥じとし、官位を譲って自宅に帰りました。弟の梁蒙と共に門を閉じて外と接触しないようになります。
梁冀は梁不疑が賓客と交わることを願わなかったため、秘かに人を送り、服を換えて梁不疑の門に至らせ、訪問した者を記録させました。
南郡太守馬融と江夏太守田明が任命されたばかりの時に梁不疑の家を訪ねて謁見したため、梁冀は有司(官員)に示唆して馬融が郡で貪濁(貪汚)していると弾劾させ、田明も理由をつけて陥れました(以他事陷明)
二人とも髠笞(「髠」は髪を剃る刑、「笞」は鞭打ちの刑です)に処されて朔方に遷されることになります。
馬融は自分を刺して果たせませんでしたが(自殺に失敗しました。原文「自刺不殊」)、田明は路上で死にました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
二月、九江と廬江で大疫が発生しました。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
甲午、河閒王(河間王)建が死にました。
 
劉建の諡号は貞王で、恵王劉政の子、孝王劉開の孫です。劉開は章帝の子です。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉建の死後、子の安王利が継ぎました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月己丑(初三日)桓帝が微行(おしのび)して河南尹梁胤の府舍を行幸しました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』は「梁胤の府舍」を「梁不疑の府」としていますが、『資治通鑑』は范瞱の『後漢書楊震列伝巻五十四)』に従っています。
 
この日、大風が樹を倒し、昼なのに暗くなりました。
尚書楊秉が上書しました「臣が聞くに、天は言葉を話すことがなく、災異によって王に譴告するものです(天不言語,以災異譴告王者)。至尊(天子)の出入りには常(常法。決まり)があり、警蹕(道を清めて警護すること)して進み、静室(事前に宮室を清めること。『資治通鑑』胡三省注によると、漢代は静室令がいました)して止まり、郊廟の事でなかったら、鑾旗(天子の車)を駕しません(郊祭や宗廟の祭祀でなければ皇帝の車が妄りに皇宮から出ることはありません)。だから諸侯が諸臣の家に入ることに対して、『春秋』も誡(教訓)を列挙しています(陳霊公は夏徵舒の家に行って弑殺され、斉荘公は崔杼の家に行って弑殺されました。『春秋左氏伝』に詳しく書かれています)。先王の法服を着て、秘かに外出して遊楽し(以先王法服而私出槃游)、尊卑を降乱させ、等威(威儀の等級)の秩序を無くし、侍衛に空宮を守らせ、璽紱(皇帝の璽綬)を女妾を委ねるのは、なおさら相応しくありません。もしも非常の変、任章の謀(任章は西漢宣帝を暗殺しようとして失敗しました。西漢宣帝地節四年66年参照)があったら、上は先帝を裏切り、下は後悔しても及ばなくなります。」
桓帝は諫言を聞き入れませんでした。
楊秉は楊震の子です。
 
[] 『後漢書桓帝紀』からです。
己丑(初三日。上の記述と同日です)、安平王(孝王)が死にました。
 
劉得は河間孝王劉開の子で、「劉徳」とも書きます。楽成靖王劉党(明帝の子)の後を継ぎました(安帝延光元年122年参照)
『孝明八王列伝』によると、劉得の死後、子の劉続が継ぎました。
霊帝中平元年(184)、黄巾賊が挙兵した際、劉続は捕えられて人質になり、広宗(地名)に幽囚されます。黄巾はその年の内に平定されて劉続も安平国を恢復させますが、同年秋、不道の罪に坐して誅殺され、在位三十四年で国が除かれます。



次回に続きます。