東漢時代383 献帝(六十五) 孫権 200年(5)
ここで少し遡って孫権について書きます。
孫権は字を仲謀といいます。
この時、劉琬が人に言いました「私が孫氏兄弟を観たところ、確かにそれぞれ才秀明達だが、皆、禄祚(福禄。天寿)を全うできない(禄祚不終)。ただ中弟の孝廉だけは、形貌が奇偉で骨体が普通ではなく(骨体不恒)、大貴の表(様相)があり、年も最も寿がある(最も長寿だ。原文「年又最寿」)。汝は試しに覚えておけ(爾試識之)。」
しかし孫権は悲傷して号哭を止めず、政務を行おうとしません。
孫策の長史だった張昭が孫権に言いました「孝廉(孫権は陽羨長になってから、郡によって孝廉に挙げられたため、「孝廉」と称されました)、今は哀哭している時ですか(此寧哭時邪)!(西周の)周公が法を立てても伯禽(周公の子)はそれを師としませんでした(それに従いませんでした。周公が三年の喪の制度を作りましたが、伯禽は王命を尊重して喪を中止し、出征しました。裴松之が解説していますが、省略します)。これは父に違えたのではなく、時勢においてそうできなかったのです(時不得行也)。ましてや今は姦宄(姦悪)が競って(権勢を)逐っており、豺狼が道に満ちています。親戚(家族)に哀して(哀悼して)礼制を顧みようと欲するのは、門を開いて盗人に揖(揖礼)するようなものなので、仁とみなすことはできません。」
張昭は孫権の服を換えさせると、抱えて馬に乗せ、外に出て軍中を巡視させました。
また、張昭は僚属を率いて上は朝廷に奏表を提出し、下は属城に通知し、中外(内外)の将校にそれぞれ職務を全うさせました。
周瑜が兵を率いて巴丘から喪に赴き、そのまま呉に留まりました。中護軍として張昭と共に衆事を管理します。
『資治通鑑』胡三省注によると、秦が護軍都尉を置いて漢も踏襲しました。高祖は陳平を護軍中尉に任命しています。武帝は護軍都尉を大司馬に属させました。東漢になると、大将軍が出征する時に中護軍が一人置かれました。
三国虎争の時(三国時代。実際は東漢末)に始めて中護軍の官が置かれました。魏晋以後は、資(資格。任務)が軽い者は中護軍に、重い者は護軍将軍になります。但し、呉には左右護軍もいました。呉の制度では中・左・右の三部に分けられていたようです。
当時、孫策(孫権)は会稽、呉郡、丹陽、豫章、廬江、廬陵を有していましたが、それらは深険の地で、全ての者が従っていたわけではなく、州郡には天下の英豪が分布し、賓旅寄寓の士(流寓の士)も皆、安危によって去就を決めようとする気持ちを持っており(とりあえずの避難の地と考えており。原文「以安危去就為意」)、君臣の固い関係はまだありませんでした。
次回に続きます。