東漢時代398 献帝(八十) 袁尚討伐 204年(1)
甲申 204年
『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、内黄は鄴の東南に位置します。
曹操は軍を進めて洹水に至りました。
『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、洹水は鄴の南を流れています。
曹操が鄴まで進み、土山や地道を造って攻撃しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、易陽県は趙国に属します。渉県は漢末に上党の潞県を分けて置かれたようです。県の南に渉河が流れていました。
『資治通鑑』胡三省注によると、当時は河北がまだ平定されていなかったため、「平北」の号を授けました。晋代以降は「征・鎮・安・平」が将軍号の序列になります(「征」が上、「平」が下です。それぞれに北・西・南・東の四方があるので、「四征・四鎮・四安・四平」になります。「征北将軍」「征南将軍」「征西将軍」「征東将軍」等です)。
曹操は初めは濠を浅く掘らせて越えられるように見せました。
審配はそれを眺め見て笑い、敢えて兵を出して利を争おうとはしませんでした(濠が浅いのを見て安心したからです)。
ところが曹操は一夜で濠を深くしました。広さと深さが二丈あり、そこに漳水の水を引いて注ぎ込みます。
鄴の内外が遮断されたため、城中の餓死者が半数を超えました。
この部分は『資治通鑑』を元にしました。
『三国志』よりも後に書かれた『後漢書・袁紹劉表列伝下(巻七十四下)』は「決漳水以灌之(漳水を決壊させてそこに注いだ)」を「引漳水以灌之(漳水を引いてそこに注いだ)」に書き換えており、『資治通鑑』もこれに従っています。
本文に戻ります。
李孚は問事杖(刑杖)を切り(原文「斫問事杖」。木を伐って刑杖を作ったのだと思います)、それを馬辺(馬の左右)に繋ぎ付け、自身は平上幘(武官の冠)を被り、三騎だけを率いて、投暮(夕方)に鄴下に向かいました。
その後、曹操の営前を通って南の包囲陣に至ると、章門(『資治通鑑』胡三省注によると、鄴城には七門があり、正南を章門、または中陽門といいました)の方を向き、再び包囲している兵を叱責怒号して縄で繋ぎました。
その隙に包囲を開き、城下に駆けて城壁の上の者に呼びかけます。
城壁の上の者が縄で引き上げたため、李孚は城内に入ることができました。
『資治通鑑』胡三省注は「先に曹操の営前を通らなかったら、包囲している者が必ず疑うので、彼等を捕えて縛ることはできなかったし、包囲も開けなかった。李孚が来た時、元々(北から曹操の陣に入って東に向かい、わざと曹操の営前を通ってから南に移り)章門から入るという計が定まっていた」と解説しています。
審配等は李孚に会って悲喜しました。鼓譟(太鼓を叩いて喚声を上げること)して万歳を唱えます。
李孚は外の包囲が更に厳しくなっており、再び冒すことはできない(原文「不可復冒」。「再び来た時のような危険を冒すことはできない」または「再び曹操の軍吏のふりをすることはできない」という意味だと思います)と知りました。そこで審配に進言し、穀物の消費を減らすために城中の老弱の者を全て外に出すように請いました。
李孚はまた三騎だけを従え、降人の服を作り、人々に従って夜の間に外に出て、包囲を突破して去ることができました(隨輩夜出突囲得去)。
袁尚の兵が来ました。
曹操軍の諸将は皆、「これは帰師なので、人々は自ら戦おうとします(帰還する兵は家に帰るために必死に戦います)。避けるべきです」と言いましたが、曹操はこう言いました「袁尚が大道から来たら避けるべきだが、もしも西山に沿って来るようなら、彼は禽(虜)になる(此成禽耳)。」
『資治通鑑』胡三省注が解説しています。もし大道から来たら、人々は拠点を救おうという気持ちを抱き、勝敗を顧みず必死の志を持ちます。しかし山に沿って来たら、戦ってから前進も退却もできるので、人々は険阻な地形に頼って自分を守ろうとする心を持ち、力を併せて命を懸けようとする意志は生まれません。
果たして袁尚は西山に沿って来ました。東に向かって陽平亭に至り、鄴から十七里離れた場所で滏水に臨んで営を構えます。
『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、滏水は鄴の北を流れています。
次回に続きます。