東漢時代398 献帝(八十) 袁尚討伐 204年(1)

今回は東漢献帝建安九年です。四回に分けます。
 
東漢献帝建安九年
甲申 204
 
[] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、曹操が河を渡り、淇水を止めて水を白溝に入れ、糧道を通しました。袁尚を攻撃するためです。
資治通鑑』胡三省注によると、淇水は黎陽で黄河に入りますが、曹操が水口(河口)を塞いで淇水を東に流し、白溝に合流させました。白溝は内黄県南を流れます。
『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、内黄は鄴の東南に位置します。
 
二月、袁尚が再び平原の袁譚を攻めました。将審配、蘇由を留めて鄴を守らせます。
曹操は軍を進めて洹水に至りました。
『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、洹水は鄴の南を流れています。
 
蘇由が曹操に内応しようと欲しましたが、謀が漏れたため、出奔して曹操に帰順しました。
 
曹操が鄴まで進み、土山や地道を造って攻撃しました。
 
袁尚が任命した武安長尹楷が毛城に駐屯しており、上党の糧道を通していました。
夏四月、曹操曹洪を留めて鄴を攻撃させ、自ら兵を率いて尹楷を撃ちました。曹操が尹楷を破って戻ります。
 
袁尚の将沮鵠が邯鄲を守っていましたが、曹操はこれも撃って攻略しました。
三国志武帝紀』注によると、沮鵠は沮授の子です。

易陽令韓範、渉長梁岐が県を挙げて曹操に降りました。
資治通鑑』胡三省注によると、易陽県は趙国に属します。渉県は漢末に上党の潞県を分けて置かれたようです。県の南に渉河が流れていました。
魏になってから広平郡が置かれ、二県とも広平郡に属しました。北斉が渉県を廃して刈陵県に入れましたが、隋唐になって再び渉県が置かれます。
 
徐晃曹操に言いました「二袁はまだ破れておらず、諸城でまだ降っていない者は耳を傾けて情勢を聴いています(傾耳而聴)。二県を旌賞(表彰)して諸城に示すべきです。」
曹操はこれに従い、韓範と梁岐に関内侯の爵位を下賜しました。
 
黒山賊の帥張燕が使者を送って曹操に援けを求めたため、曹操張燕を平北将軍にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、当時は河北がまだ平定されていなかったため、「平北」の号を授けました。晋代以降は「征平」が将軍号の序列になります(「征」が上、「平」が下です。それぞれに北西東の四方があるので、「四征四鎮四安四平」になります。「征北将軍」「征南将軍」「征西将軍」「征東将軍」等です)

五月、曹操が土山や地道を破壊し、塹(濠)を掘って城を囲みました。周囲四十里に及びます。
資治通鑑』胡三省注が解説しています。土山や地道は急攻に使いますが、急攻では攻略できないと判断したため、塹(濠)を掘って城を囲み、内外を遮断して久しく困窮させることにしました。
 
曹操は初めは濠を浅く掘らせて越えられるように見せました。
審配はそれを眺め見て笑い、敢えて兵を出して利を争おうとはしませんでした(濠が浅いのを見て安心したからです)
ところが曹操は一夜で濠を深くしました。広さと深さが二丈あり、そこに漳水の水を引いて注ぎ込みます。
鄴の内外が遮断されたため、城中の餓死者が半数を超えました。
資治通鑑』胡三省注によると、漳水は鄴県の西を流れていました。曹操はこれを堰き止めて鄴を水で囲みました。
 
この部分は『資治通鑑』を元にしました。
三国志武帝紀』は「漳水を決壊させて城に注いだ(決漳水灌城)」と書いており、鄴城を水没させたように読めますが、実際は濠に水を注いだのだと思います。
三国志魏書六董二袁劉伝』では、曹操が塹を造り、漳水を決壊させてそこに注いでいます(原文「太祖()為塹,()広深二丈,決漳水以灌之」)
三国志』よりも後に書かれた『後漢書袁紹劉表列伝下(巻七十四下)』は「決漳水以灌之(漳水を決壊させてそこに注いだ)」を「引漳水以灌之(漳水を引いてそこに注いだ)」に書き換えており、『資治通鑑』もこれに従っています。
 
本文に戻ります。
秋七月、袁尚が兵一万余人を率いて帰還し、鄴を助けようとしました。到着する前に審配に城外の動静を知らせたいと思い、先行して主簿鉅鹿の人李孚を派遣して城内に入らせます。
李孚は問事杖(刑杖)を切り(原文「斫問事杖」。木を伐って刑杖を作ったのだと思います)、それを馬辺(馬の左右)に繋ぎ付け、自身は平上幘(武官の冠)を被り、三騎だけを率いて、投暮(夕方)に鄴下に向かいました。
自ら都督と称して北の包囲陣を通り、表曹操軍の陣内に立てられた標識)に沿って東に向かい、進みながら所々で城を包囲している将士を叱責し(歩歩呵責守囲将士)、罪の軽重に基いて刑罰を行います。
その後、曹操の営前を通って南の包囲陣に至ると、章門(『資治通鑑』胡三省注によると、鄴城には七門があり、正南を章門、または中陽門といいました)の方を向き、再び包囲している兵を叱責怒号して縄で繋ぎました。
その隙に包囲を開き、城下に駆けて城壁の上の者に呼びかけます。
城壁の上の者が縄で引き上げたため、李孚は城内に入ることができました。
資治通鑑』胡三省注は「先に曹操の営前を通らなかったら、包囲している者が必ず疑うので、彼等を捕えて縛ることはできなかったし、包囲も開けなかった。李孚が来た時、元々(北から曹操の陣に入って東に向かい、わざと曹操の営前を通ってから南に移り)章門から入るという計が定まっていた」と解説しています。
 
審配等は李孚に会って悲喜しました。鼓譟(太鼓を叩いて喚声を上げること)して万歳を唱えます。
 
城を包囲している者が曹操に状況を報告すると、曹操は笑ってこう言いました「彼は入ることができただけではない。これから再び出ることもできる(此非徒得入也,方且復出)。」
 
李孚は外の包囲が更に厳しくなっており、再び冒すことはできない(原文「不可復冒」。「再び来た時のような危険を冒すことはできない」または「再び曹操の軍吏のふりをすることはできない」という意味だと思います)と知りました。そこで審配に進言し、穀物の消費を減らすために城中の老弱の者を全て外に出すように請いました。
夜、数千人を選んで皆に白幡(白旗)を持たせ、三門(『資治通鑑』胡三省注によると、鄴城南面の三門を鳳陽門、中陽門、広陽門といいました)から同時に外に出して曹操軍に投降させました。
李孚はまた三騎だけを従え、降人の服を作り、人々に従って夜の間に外に出て、包囲を突破して去ることができました(隨輩夜出突囲得去)
 
袁尚の兵が来ました。
曹操軍の諸将は皆、「これは帰師なので、人々は自ら戦おうとします(帰還する兵は家に帰るために必死に戦います)。避けるべきです」と言いましたが、曹操はこう言いました「袁尚が大道から来たら避けるべきだが、もしも西山に沿って来るようなら、彼は禽(虜)になる(此成禽耳)。」
資治通鑑』胡三省注が解説しています。もし大道から来たら、人々は拠点を救おうという気持ちを抱き、勝敗を顧みず必死の志を持ちます。しかし山に沿って来たら、戦ってから前進も退却もできるので、人々は険阻な地形に頼って自分を守ろうとする心を持ち、力を併せて命を懸けようとする意志は生まれません。
曹操袁尚が後者を選ぶと予測しました。
 
果たして袁尚は西山に沿って来ました。東に向かって陽平亭に至り、鄴から十七里離れた場所で滏水に臨んで営を構えます。
『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、滏水は鄴の北を流れています。
 
三国志武帝紀』裴松之注が当時の曹操軍の状況を書いています。
偵察のために派遣された数部の者が前後して到着し、皆、こう言いました「袁尚は)間違いなく西道から来ています。既に邯鄲にいます(定従西道,已在邯鄲)。」
曹操は大いに喜び、諸将を集めてこう言いました「孤(わし)は既に冀州を得た。諸君にはそれが分かるか(諸君知之乎)?」
皆が「わかりません(不知)」と答えると、曹操は「諸君はもうすぐそれを見ることになる(方見不久也)」と言いました。
 
 
 
次回に続きます。