東漢時代 曹操

東漢献帝建安二十五年220年)曹操が死にました。

東漢時代463 献帝(百四十五) 曹操の死 220年(1)


三国志魏書一武帝紀』裴松之注が『魏書』『傅子』等から曹操に関する記述を引用しているので、以下、紹介します。
 

まずは『魏書』です(『資治通鑑』の曹操に対する評は主にここから抜粋引用しています)

曹操(原文は「太祖」ですが、以下、「曹操」と書きます)は自ら海内を統御して群醜を芟夷(討滅、平定)し、その行軍用師(行軍作戦。軍事行動)はおよそ呉の孫子呉子の兵法)に則り、事に因って奇を設け、敵を欺いて勝ちを制し、変化の様子は神のようだった(因事設奇,譎敵制勝,変化如神)。自ら兵書十万余言を著作し、諸将の征伐は、皆、新書曹操兵法書によって従事した(事を行った)

事に臨んだらまた自らの手で指揮をとり(手為節度)、令に従った者は克捷(勝利)して、教えに違えた者は負敗(敗北)した。虜と対陣したら意思が安閑として(気持ちが安寧静寂で)戦を欲していないようだったが、機が決して勝ちに乗じると、気勢が満ち溢れたので、戦はいつも必ず克ち、軍に幸勝(幸運の勝利)がなかった。
善く人を観察してその能力を知ることができ、偽りによって惑わすのは困難だった(知人善察,難眩以偽)于禁楽進を行陣の間(行軍の中。軍隊)から抜擢し、張遼徐晃を亡虜の内(投降した敵勢力)から取り、皆、天命を援けて功を立て(佐命立功)、名将に列した。その他にも、細微(卑賤な者)から抜擢して牧守に登った者は数え切れない。
これによって大業を刱造(創造)し、文武を並んで施し、御軍して(軍を統率して)三十余年、手から書物を離したことがなく(手不捨書)、昼は武策を講じ、夜は経伝を習い、高地に登ったら必ず(詩を)賦し(登高必賦)、新詩を作るに及んだら、それに管絃の曲を付けて全て楽章と成した(被之管絃皆成楽章)
才力が卓越しており(才力絶人)、手は飛ぶ鳥を射て体は猛獣を捕まえ(手射飛鳥躬禽猛獣)、かつて南皮で雉を射て一日に六十三頭(羽)を獲たこともあった。

宮室を造作(建築)して機械(器具)を繕治(修理制作するに及んでは、法則(計画方法)を為さないことがなく(あらかじめしっかりとした計画を立て)、皆、その意を尽くした(目的通りに完成した)

雅性(元からの性格)は節倹で、華麗を好まなかったため、後宮の衣服は錦繡を使わず、侍御の履(履物)は二采(二彩。複数の色)を使わなかった。帷帳屏風が壊れたら補納(補修)し、茵蓐(敷物。布団)は温を取るだけで縁飾もなかった。

城を攻めて邑を抜き、靡麗(華麗)の物を得たら、ことごとく功がある者に下賜し、賞すべき勲労には千金も惜しまなかったが、功が無いのに施を望む者には分豪(分毫。極めて少ないこと。ここでは「わずかな金額」です)も与えなかった。四方が献御(献上、貢献)したら、群下とこれを共にした。
送終の制(葬儀の制度)や襲称の数(死者に贈る衣服の数)が煩雑かつ無益なのに、世俗がこれを過度にしていると常に思っていたため、あらかじめ自ら終亡の衣服(死後に着る衣服)を制定し、四篋(四箱)だけにした。
 
次は『傅子』からです。
曹操は婚姻における奢僭(分を越えて奢侈な様子)に心を痛めたため(愍嫁娶之奢僭)、公女が人に嫁ぐ時は、全て皁帳(黒い帳)を使い、従婢も十人を越えなかった。
 
次は『張華博物志』からです。

漢の世は、安平の人崔瑗と崔瑗の子寔、弘農の人張芝と張芝の弟昶が並んで草書を善くし、曹操はこれに次いだ。

桓譚、蔡邕は音楽を善くし、馮翊の山子道、王九真、郭凱等は囲棊囲碁を善くしたが、曹操はこれらの能力が全て同等だった(埒能)

曹操は)養性の法を好み、方薬も理解し、方術の士を招き入れた。廬江の人左慈、譙郡の人華佗、甘陵の人甘始、陽城の人郄倹で至らない者はいなかった。また、野生の葛を一尺も食べる練習をし、しかも少量の鴆酒を飲むこともできた(習啖野葛至一尺亦得少多飲鴆酒

 
再び『傅子』からです。

漢末の王公は多くが王服を棄てて幅巾(頭巾の一種)を雅とした。そのため袁紹、崔豹の徒は将帥でありながら皆、縑巾(絹の頭巾)を着けた。曹操は天下が凶荒に襲われて資財が乏匱(欠乏)していたため、古に真似て皮弁(皮の冠)を作り、縑帛(絹織物)を裁って(簡易な帽子。冠の一種)とし、簡易隨時の義(簡単便利でその時の目的に応じて使うという道理)に合わせ、色によって貴賤を分けた。これは今(晋代)においても施行されているが、軍容というべきであって、国容(国の正装)ではない。

 

最後は『曹瞞伝』からです(『資治通鑑』の曹操に対する評はここからも一部を抜粋引用しています)

曹操の為人は佻易(軽薄。軽率)で威重がなく、音楽を好み、倡優(役者、芸人)が側にいて常に昼間から夜に達した(常以日達夕)。被服(衣服)は軽綃(軽い絹)を用い、身には自ら小鞶囊(小さな革製の袋)を佩して手巾や細物(こまごまとした物)を入れ、時には(簡素な冠)をかぶって賓客に会った。

いつも人と談論する時は戯れたり風刺をして全く隠すことがなく(原文「戲弄言誦尽無所隠」)、歓悦大笑したら頭を杯と机の間にうずめ(頭沒杯案中)、肴膳(料理)で巾幘(頭巾)をすっかり汚してしまうこともあった。その軽易(軽率)な様子はこのようであった。
しかし法を用いたら峻刻(厳酷)で、諸将で計画(計策)が自分より勝っている者がいると、法によって誅殺してしまい、故人(旧知)でも旧怨があったら余すことがなかった(見逃さなかった)。刑を用いて殺す時はいつも対面して涙を流し、悲痛のため嘆息したが(垂涕嗟痛)、結局活かすことはなかった。

以前、袁忠が沛相になり、法を用いて曹操を治めよう(裁こう)としたことがあった。沛国の人桓邵も曹操を軽んじていた。

曹操が兗州に居た時、陳留の人辺譲の言議が曹操を頗る侵した(害した)ため、曹操は辺譲を殺してその家族も滅ぼした(族其家)。袁忠と桓邵は共に交州に避難したが、曹操は太守燮に使者を送って全て族滅させた。桓邵が出頭して庭中で拝謝したが、曹操は「跪いたら死を解くことができるのか(跪可解死邪)」と言ってやはり殺してしまった。

かつて兵を出した時、麦の中を通ったことがあった。そこで曹操が令を発した「士卒は麦を傷つけてはならない。犯した者は死刑に処す(士卒無敗麦,犯者死)。」
騎士は皆、馬から下り、麦をもって互いに渡しあった(原文「付麦以相付」。麦の茎をもって道を開き、後ろの者に渡しながら前に進んだのだと思います)
この時、曹操の馬が飛び跳ねて麦の中に入ってしまった(騰入麦中)曹操は主簿に命じて罪を議させた(判断させた)。主簿は「『春秋』の義(道理)によれば、尊位には罰を加えないものです(以春秋之義,罰不加於尊)」と答えたが、曹操はこう言った「法を制定したのに自らそれを犯したら、どうして下を統率できるか(何以帥下)。しかし孤(私)は軍の帥(将帥)となったので、自らを殺すわけにはいかない。自ら刑を行うことを請う(請自刑)。」
そこで曹操は剣をとって髪を切り、それを地に置いた。
また、ある幸姫が昼寝に従ったことがあった。曹操は幸姫を枕にしてその上に卧せ(膝枕をさせたのだと思います。原文「枕之卧」)、こう告げた「暫くしたら私を起こせ(須臾覚我)。」
しかし姫は曹操が臥せて安んじているのを見て、すぐには起こさなかった。
曹操は自分で目を覚ましてから、姫を棒殺してしまった。
以前、賊を討った時、廩穀(食糧)が不足したため、曹操は秘かに主者(担当者)に如何するか聞いた。
主者が「小斛(小さい容器)を使えば(規定の量を)満足させることができます(可以小斛以足之)」と答えると、曹操は「善し(善)」と言った。
しかし後に軍中で兵達が「曹操が衆を欺いている」と言うようになった。そこで曹操は主者に「特に君の死を借りて衆人を抑えるつもりだ。そうしなければ解決できない(特当借君死以厭衆,不然事不解)」と言うと、斬って首を取り、それを曝して標札に「小斛を用いて官穀を盗んだので、軍門でこれを斬った(行小斛盗官穀,斬之軍門)」と書いた。
曹操の酷虐変詐(残虐暴虐で欺瞞)な様子は全てこの類であった。