西周時代に入る前に

今回から周王朝に入ります。
周は非常に長い時代ですが、鎬京西安付近)を首都としていた前半と、雒邑(洛陽附近)を首都にしていた後半とで分けられます。前半を西周、後半を東周といいます。
後半の東周時代は春秋・戦国時代ともいい、分裂の時代です。
まずは西周時代を紹介します。
 
なお、西周時代の後期、紀元前841年・共和元年から歴史書に明確な年が記載されるようになりました。それ以前の歴代王に関しては、在位年数に諸説があります。周王朝がいつから始まったかも正確には分かっていません。一般的には紀元前11世紀頃から紀元前771年までを西周時代としています。
 
 
建国
周は帝堯、帝舜および夏王朝創始者・禹の時代に大きな功績を残した后稷(弃)から始まります。姫姓の国です。后稷の子孫・公劉の時代に豳(邠)に住み、古公亶父の代になって岐山のふもとの周原に遷りました。ここから国号を周と号します。
亶父が死に季歴が跡を継ぐと、周は急速に勢力を拡大していきます。季歴は商王朝の牧師に任命され、やがて伯(諸侯の長)に封じられました。
季歴を継いだ昌も西伯となり、商王朝から諸侯を討伐する権限を与えられます。西伯・昌は後に周の文王とよばれます。
当時の商王朝は暴君・紂の時代で、政治は混乱し、国力は衰え、諸侯も民衆も離心していました。人々は徳政を行う周に帰順するようになります。
やがて西伯・昌が死に、太子・発が跡を継ぎました。これを周の武王といいます。
商では紂の悪政が改められることなく、賢臣が退けられました。
そこで武王が討伐を行い、商を滅ぼして天子の位に登りました。
 
商王朝に換わって天下を治めることになった武王は、まず「分封制封建制」を実施しました。歴代王朝の領土は年を重ねるごとに拡大しています。三皇五帝の時代よりも夏王朝の方が統治圏は広く、夏王朝よりも商王朝の方が統治圏は拡がっています。同じように、周王朝が治める領域は商王朝時代よりも大きくなっています。拡大した領土をどう治めるかは、周王朝にとって大きな問題でした。
そこで武王は親族や信用できる功臣を地方に派遣して治めさせることにしました。地方を任せられた者は諸侯といい、中央周王朝に対する忠誠と定期的な進貢の義務を守ることで、与えられた領土封地の中で独立に近い統治を行うことが許されました。
商王朝以前も分封制は行われていたようですが、恐らく明確な制度が作られたのは周代になってからのことです。
分封によって商王・紂の子・武庚が商都周辺の地を与えられました。武王の三人の弟(管叔・鮮、蔡叔・度、霍叔・処)が武庚と旧商の民を監督することになります。これを三監といいます。
 
中央と地方、周王と諸侯、統治者と被統治者という関係を明らかにするために「宗法制」が確立されたのも周代のことです。
宗法制の基本は嫡長子(正妻が産んだ長子)による継承制度です。天子の地位は嫡長子が継ぎ、他の子は諸侯に分封されました。諸侯の後継者も自分の嫡長子が選ばれ、他の子はその国の卿・大夫になります。卿・大夫の家も嫡長子が継ぎ、他の子は士になります。士の家も嫡長子が継ぎ、他の子は庶民になります。
こうして嫡長子を中心とした継承の制度が作られ、それが社会的地位や身分を形成する条件となりました。
 
西周を建国した武王はこうした制度を定め、数年後に世を去りました。
 
 
三監の乱と成康の治
武王を継いだのは成王です。しかし成王は幼かったため、実際の政治は周公・旦が行いました。
これに対して管叔・鮮、蔡叔・度が不満を持ちます。二人は武庚(紂の子)を擁し、霍叔・処とも協力して兵を挙げました。これを「三監の乱」といいます。東夷等も管叔、蔡叔に協力し、大きな勢力になりました。
しかし乱は周公の東征によって鎮圧されました。
三監の乱を経て周王朝の東方における統治力が固められました。
 
その後、周公・旦は成長した成王に政治を返還しました。成王は徳政を行い国内を安定させます。
成王の時代に東都・成周(雒邑)が建設されました。
成王を継いだ康王も優れた政治を行い、国力を増強させました。成王と康王の時代は泰平の世が訪れたため、四十余年の間、刑罰を用いることがなかったといわれています。
二人の治世は「成康の治」として称えられています。
但し康王の晩期から周辺少数民族との戦争が増えるようになりました。
 
 
昭・穆から夷王まで
康王を継いだ昭王の時代から周王朝は急速に衰退します。
昭王は大規模な南征を行い荊楚の地を攻めましたが、遠征中に漢水に落ちて死にました。周軍も全滅します。
昭王を継いだ穆王も西北の犬戎を始め、各地に兵を用いました。その結果、周の国土は拡張されましたが、周辺少数民族との対立も深め、また穆王が長い間朝廷から離れたため、政治の弛緩を招きました。穆王を継いだ恭王(共王)西戎の侵入に苦しむことになります。
恭王の後、懿王が即位しました。ますます政治が腐敗し、西戎の進攻も繰り返されました。
懿王の死後、太子・燮が即位するはずでしたが、燮は惰弱だったため、周王朝の中興を目指した辟方が王位に登りました。これを孝王といいます。共王の弟です(または懿王の弟)
しかし周王朝が復興することはなく、孝王は十五年(異説あり)で死に、結局、燮が即位しました。これを夷王といいます。
夷王の時代、周王朝はますます衰弱しました。
 
 
厲王と国人暴動
夷王を継いだ厲王の時代、周王朝は大きな危機に直面します。
厲王は山林等から採れる物資を独占するために平民が山林川沢を利用することを禁止しました。国人(都邑に住む平民)が不満の声を上げると厲王は近臣を派遣して人々を監視し、重刑を用いて口を塞ぎます。その結果、民の不満は聞こえなくなり、厲王はますます驕慢になりましたが、紀元前842年、ついに国人が暴動を起こして王宮を攻撃しました。厲王は都から逃走して彘という場所で余生を過ごすことになります。
この事件を「国人暴動」といいます。
 
 
共和と宣王中興
厲王の出奔によって朝廷に王がいないという状態になりました。そこで共伯・和という諸侯が王の代わりに政治を行うことになります。この時代を共和時代といいます。
一説では召公と周公という二人の大臣が共に政事を行ったため、「共和」と呼ぶようになったともいいます。
冒頭にも書きましたが、中国の歴史書は「共和」時代から詳しい年代が残されています。国人暴動によって厲王以前の史書が失われたのではないかともいわれています。
 
共和時代末、厲王が亡命先の彘で死にました。
朝廷は厲王の太子・静を王位に迎えます。これを宣帝といいます。
宣王は政治の立て直しを図り、賢臣を用いて厲王時代の弊害を除いていきました。文・武・成・康四王時代の政策が恢復され、周王朝が復興します。
国内の安定と同時に周王朝を悩ませていた西戎に対しても反撃を開始しました。秦仲等の遠征によってついに西戎を西北に撃退します。
同時に北方の玁狁等を退け、南方の淮夷や荊楚を破って領土を拡大することに成功しました。
これらの業績は「宣王中興」として称えられています。
 
しかし四十六年におよぶ宣王の在位中に早くも衰えが見え始めます。国の財収を確保するために「料民(戸籍調査)」を行おうとしましたが、貴族の反対によって頓挫しました。
連年の戦争によって国庫は乏しくなり、姜戎との戦い(千畝の戦い)では大敗を喫しました。
晩年の宣王は享楽に耽り、しかも魯国の後継者問題に介入して諸侯の信頼を失いました。
こうして再び周王朝が衰退を始めた時、宣王が死に、子の幽王が即位しました。
 
 
幽王と遷都
幽王は西周最後の王です。衰退する王朝を建てなおすことなく、美女・褒姒を寵愛して淫楽に夢中になりました。美女に溺れて政治を忘れるというのは夏王朝商王朝も歩んだ滅亡の道です。
褒姒が子・伯服を産むと、幽王は申后との間にできた太子・宜臼を廃して伯服を太子に立てました。これが申后の父・申侯の大きな不満を招きます。
紀元前771年、申侯が犬戎等と結んで鎬京を攻撃しました。幽王は驪山で殺され、西周が滅亡します。
 
翌年(前770年)、申侯と諸侯は元太子・宜臼を周王に立てました。これを平王といいます。周朝廷は荒廃した都・鎬を棄てて東都・雒邑に遷りました。
ここから東周時代に入ります。春秋・戦国時代とよばれる大分裂時代の始まりです。
 
以上が西周の概略です。次回から詳しく見ていきます。
 
 
西周時代の目録は長くなるので別のページに作ります
 
 
 
西周諸王の系図です。『史記・周本紀』『史記・三代世表』を参考にしました。
まずは武王までです。
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武王以降です。
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中国地図出版社の『中国歴史地図集(第一冊)』を元に地図を作りました。
青字は現在の地名です。
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『中国歴代戦争史』を元に西周発展の経緯を示す地図を作りました。
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*全て拡大できます。