西周時代12 成王(五)

今回も西周成王の時代です。
 
九年
[一] 春正月、成王が太廟を祭り、始めて「勺」を用いて天を祀りました。「勺」は「汋楽」ともよばれる音楽です。「勺」は「先祖の道を掬う」という意味のようです。
 
[二] 粛慎氏が来朝しました。
成王が栄伯周と同姓の畿内の諸侯。周朝廷の卿大夫)に命じて粛慎氏を賞賜させ、『賄息慎之命』を作らせました。『尚書』に収録されていたようですが、伝わっていません。
 
 
十年
[一] 成王が叔虞を唐に封侯しました。
成王の父・武王は斉太公・呂尚の娘・邑姜を娶り、太叔(叔虞)を妊娠しました。ある日、邑姜が夢を見ました。天が武王にこう言います「わしは汝に男児を授ける。名を虞という。唐の地を与えよう。唐は諸参に属し、その子孫は繁栄する。」
「諸参」というのは参星を指すと思います。帝嚳の子・実沈が参星によって時節を観測し、その伝統が唐国に継承されたことは以前述べました。
 
やがて男児が産まれました。その手には「虞」という模様があります。男児は虞と名付けられました。これが叔虞です。
武王が死んで成王が即位してから、唐で乱がありました。唐は周公・旦に滅ぼされます(成王八年)
ある日、成王が桐の葉を削って珪の形を作り、叔虞に与えて言いました「これを用いて汝を封侯しよう。」
それを見ていた史佚が成王に言いました「封侯の日をお決めください。」
成王が言いました「弟と戯れただけだ。」
史佚が言いました「天子に戯言はありません。天子の言葉は史書に書き残され、礼によって完遂され、楽奏して歌われるものです。」

成王は叔虞を唐に封じて唐侯唐叔虞としました。唐は黄河・汾水の東に位置する百里四方の地で、堯の故墟といわれています。
後に唐叔虞の子・(または「父」)が晋水の辺に遷って晋侯に改めました。これが春秋時代の大国・晋の始まりです。
史記・晋世家』によると唐叔虞の字は子于といいます。周とおなじ姫姓の国です。
 
[二] 『竹書紀年』(今本)はこの年に越裳氏の使者が来たとしています。しかし恐らく周公・旦が摂政していた頃のことだと思います(成王六年参照)
 
[三] かつて太公・呂尚が斉に封じられた時、呂尚は五ヶ月で斉の政治を報告に来ました。周公・旦が「なぜこれほど速いのか」と聞くと、呂尚はこう答えました「私は君臣の礼を簡潔にし、その風俗に従いました。だから速かったのです。」
伯禽は魯に封じられてから三年経って報告に来ました。周公・旦が「なぜこれほどまで遅いのだ」と聞くと、伯禽はこう答えました「私は魯の風俗を変え、礼を改めました。三年の喪が終わるのを確認したので遅くなりました。」
周公・旦が嘆いて言いました「後世、魯は北面して斉に仕えることになるだろう。政治とは簡易でなければ民が近づけない。平易で民に近ければ、民は必ず帰順するものだ。」
 
魯の国君となった伯禽が衛の康叔と入朝して成王に謁見しました。その時、三回、伯禽の父である周公・旦に会いに行きましたが三回とも笞で打たれました。
恐れた衛康叔が伯禽に言いました「商子は賢人だといいます。会って理由を聞いてみましょう。」
伯禽と衛康叔は商子に会って話をしました。すると商子はこう言いました「南山の陽(南)に喬という木があり、北山の陰(北)に梓という木がある。それを見に行きなさい。」
伯禽が見に行くと、喬は非常に高く、天を仰ぎ見るように反り返っています。梓は低い木で地に伏せるように生えています。
二人が帰って商子にその様子を話すと、商子はこう言いました「喬の様子は父道である。梓の様子は子道である。」
翌日、伯禽と衛康叔が周公・旦に会いに行きました。二人は門に入ると早足で堂に登り、周公・旦の前で跪きます。周公・旦は二人を慰労してから聞きました「誰に会った?」
二人が答えました「商子に会いに行きました。」
周公・旦が言いました「商子はまさに君子だ。」
 
[四] 周公・旦は政治を返して三年後、老齢を理由に豊に移り、文王の廟に仕えました。
 
周公・旦はこう言っていました「私は私に及ばない人とは一緒にいない。彼等は私に禍をもたらすからだ。私と同等の人とも一緒にいない。私に益がないからだ。私よりも優れた賢人とだけ一緒にいるようにしている。」
これは『呂氏春秋・先識覧・観世』に記載されています。
 
 
十一年
[一] 春正月、成王が豊に入りました。
 
 
十二年
[二] 王師(朝廷の軍)と燕師(燕国の軍)が韓に城を築き、成王が韓侯を封じました。韓侯は武王の子で成王の弟ですが、名は分かりません。
 
この他にも邘、応という国に武王の子が封じられました。
 
 
十三年
[一] 『竹書紀年』(今本)はこの年に「王師が斉侯、魯侯と合流して戎を討った」と書いていますが、恐らく成王八年に書いた淮夷・徐夷との戦いを指すと思います。
 
[二] 『竹書紀年』(今本)によると、この年の夏六月、魯が周公廟で大禘の儀式を行いました(魯大禘于周公廟)。「禘」というのは国の祖を祀る儀式です。
但し周公・旦はまだ生きているので、なぜ祭祀が行われたのかは分かりません。
 
 
十四年
[一] 斉の丁公・呂伋が曲城を包囲し、攻略しました。
 
[二] 冬、東都・洛邑が完成しました。西都を宗周とよぶのに対して、東都は成周といいます。
内城の周囲は千七百二十丈、(外城)の面積は十七里に及び、南は洛水、北は郟山に面し、天下の中央に位置する大都市です。郊甸は六百里と定められ、千里におよぶ西土は百県に分けられ、各県は四郡に、各郡は四鄙に分けられました。大県の城は王城の三分の一、小県の城は王城の九分の一とされ、一つの邑鄙の戸数は百家までに制限して農事に力を入れさせました。工匠、商賈(商人)、庶士(下級官吏)、奴僕の住む場所が分けられました。
洛邑建築に関しては『尚書』に『召誥』と『洛誥』があり、洛邑の様子は『逸周書・作雒解』に詳しく書かれています。
 
 
十八年
[一] 春正月、成王が洛邑に鼎を遷しました。
鳳凰が現れ、黄河を祀りました。
 
吉祥に関して『竹書紀年』(今本)はこのような話を紹介しています。周公・旦の摂政時代にさかのぼります。
武王が死に成王が即位しましたが、幼かったため、周公・旦が七年間摂政しました。周公・旦によって礼楽が制定されます。
すると神鳥・鳳凰が現れ、蓂莢という珍しい植物が生えました。
そこで周公・旦は成王と共に黄河と洛水に赴き、璧を沈める儀式を行いました。
まず黄河の儀式が終わり、成王が先に帰りました。
日が傾く頃になると、突然、眩しい光が現れて黄河を覆い、青雲が至りました。玄甲(鉄甲?)の図をくわえた青龍が祭壇に登り、暫く坐してから去りました。
洛水の儀式の後も同じような事が起きました。玄亀、青龍、蒼兕(水獣)が祭壇に止まり、その甲羅には書が刻まれ、赤い模様が文字になっています。周公・旦が筆をとってその文字を書きとると、文字は消えてなくなり、亀は去っていきました。
この文は周公から秦・漢に至るまでの盛衰が書かれていました。
この後、麒麟が苑で遊び、鳳凰が庭にはばたきました。成王が琴を弾きながら歌いました「鳳凰が王庭に飛んで来た。私に何の徳があって感応したのだろう。先王のおかげで恩沢が至った。共に楽しみ民を安寧にさせよう。鳳凰が来て百獣が舞い踊る(鳳皇翔兮於紫庭,余何徳兮以感霊,頼先王兮恩沢臻,于胥楽兮民以寧,鳳凰来兮百獣晨)。」
 
 
十九年
[一] 成王が侯、甸(郊外)、方岳(四方の山岳。通常は泰山・華山・衡山・恒山の四岳)を巡狩し、殷国を観察しました。召康公が従います。
 
[二] 成王が宗周・鎬京に還り、百官を正しました。
 
[三] 豊侯を廃しました。酒に溺れたのが廃爵の原因のようです。
 
 
 
次回に続きます。