西周時代13 成王(六) 成王の死

今回で西周成王の時代が終わります。
 
二十一年
[一] 「治象(明文化された法令)」を排除しました。
世の中が安定して法を犯す者がいなくなったという意味と、法治ではなく礼徳による政治(徳治)を行ったという意味があると思われます。
 
[二] 周公・旦が豊で病死しました。
死ぬ前に言いました「わしが死んだら成周に埋葬し、王に対して臣従していることを天下に示してほしい。」
これは『資治通鑑外紀』の記述です。『史記・魯周公世家』の周公の言葉は少し異なります。
周公はこう言いました「必ず私を成周に埋葬してくれ。私が成王から離れないことを明らかにするためだ。」

周公・旦は九十九歳で死んだといわれています。諡号は文公です。

史記・魯周公世家』は周公・旦の死後に起きた天変を書いています。
周公が死んでから、の収穫前に暴風雷雨が襲いました。稲が全て倒され、大木も抜けて倒れます。国の人々は大いに恐れました。
成王大夫と共に朝服を着て金縢武王十三年参照)を開きました。成は始めて周公武王の身代わりになって命を棄てようとした一件を知ります。
二公(恐らく太公と召公。但し太公は既に死んでいるはずです)と成史百執事(史官と関係する官員)に問うと、史百執事はこう言いました真実です。あの時、周公が私達に他言するなと命じました。」
成王をもって泣き、こう言いました「卜をする必要はない(成王は卜によって天変の吉凶を知ろうと思っていましたが、金縢を見てなぜ天変が起きたのか理解しました)。かつて周公王家に対して勤労であった。しかしは幼かったためそれを知ることができなかった。を動かして周公の徳を明らかにしている。朕小子(天子の謙遜した自称)自ら受け入れて国の礼で祭るべきだ。」
外に出て祭祀を行うと、が止み、向きが変わって稲が起きあがりました。
二公は国に命じて大木を立て直させました
この年は大熟(豊作)になりました(ほぼ同じ話が成王二年にもありました)
成王に命じて祭で文王を祭らせることにしました(『資治通鑑外紀』は翌年に書いています。再述します)。魯天子の礼楽を保つことになったのは周公の徳を称えて後世に伝える目的があったからです
 
 
二十二年
[一] 成王が周文公・旦を畢に埋葬し、文王の墓に従わせました。成王自身には周文公を臣下として扱うつもりがないことを示すためです。
成王は魯国に命じて代々天子の礼楽で周文公を祀らせることにしました。重祭を行うことが許されます。重祭とは主に外の「郊(郊外で天を祭る儀式)」と内の大嘗禘「(帝王を祀る儀式)」を指します。大嘗禘では楽工が堂に登って『清廟』を歌い、楽隊が堂下で『象』を奏で、舞者が朱干(赤い盾)と玉斧をもって『大武』を舞いました。また、八佾(八人八列、計六十四人の舞)で『大夏』を舞いました。これらはすべて天子の楽舞ですが、周文公の徳を称えて魯国が行うことを許しました。虞(舜)・夏・殷・周四代の衣服、器物、官位も魯が兼用することになりました。
 
凡、蒋、邢、茅、胙、祭の六国は周公・旦の子孫が封じられた国です。
 
[二] 成王が周の平公に建設中の東都・洛邑を治めさせました。
平公は君陳といい、周公・旦の子で伯禽の弟です。
少しややこしいのですが、周公・旦の周というのは周王朝がかつて拠点としていた岐山の南の地を指します。周公・旦はこの地に封じられたため、周公とよばれました。
その後、殷を滅ぼしてから武王によって曲阜に封じられました。これが魯国です。しかし魯国を実際に治めたのは周公・旦の長子・伯禽からで、周公・旦自身は都で武王・成王を補佐していました。周公としての爵位と封国も残されています。
周公・旦が死ぬと、伯禽の弟・君陳が周公・旦を継いで周公となりました。これが周の平公です。
平公は周公・旦に代わって成周(東都)を治めることになりました。この時、成王は寛大な政治を行うように平公を諭しました。その内容は『尚書・君陳』に書かれています。
 
 
二十四年
[一] 於越が来賓しました。
 
 
二十五年
[一] 成王が東都に諸侯を集めて大会を開きました。四夷が来賓しました。
 
[二] 冬十月、成王が東都から鎬京に還り、太廟を祀りました。
 
 
三十年
[一] 離戎が来賓しました。離戎は驪山の戎族です。
『逸周書・史記解』によると、以前、有林氏(恐らく諸侯)が離戎の君を招きました。しかし有林氏はせっかく訪れた離戎の君を厚遇せず、国内に留めても親しくしませんでした。離戎の君は逃げ帰ります。すると有林氏は離戎を討伐しました。それを知った天下の諸侯が有林氏を非難しました。
離戎が来賓したのは、有林氏の攻撃を受けたことを成王に訴えるためだったようです。
 
 
三十三年
[一] 成王が巻阿に巡遊しました。召康公が従います。
詩経・大雅』の『巻阿』は、この時、召康公が成王の徳を称え、同時に優秀な人材を多く用いるように勧めた詩だといわれています。
 
[二] 成王が宗周に還りました。
 
[三] 成王が世子・釗を房国に送りました。房伯の娘を娶るためです。房伯・祈は娘を送り出し、世子・釗と共に宗周に帰らせました。
『国語・周語上』には「昭王が房国の娘を娶り、房后とした」という記述が見られます。昭王は成王の孫です。
 
 
三十四年
[一] 咸陽に金の雨が降ったといいます
 
 
三十七年
[一] 夏四月、成王が病になりました。
この年の四月は庚戌が朔(初一日)です。
甲子(十五日)、成王の容態が悪化しました。
成王は太子・釗が王の任務に堪えることができないのではないかと心配しました。そこで、太保・奭、芮伯、彤伯、畢公、衛侯、毛公および師公(高級軍官)、虎臣(将領)、百尹(百官)、御事(各職の官員)を集めて後事を託しました。
 
乙丑(十六日)、成王が死にました。
成王の在位期間は周公・旦の摂政時代を含むと三十七年、親政の期間は三十年になります。二十八年という説もあります。
成王は礼楽を定め、制度を改めたため、民は和睦し太平を謳歌しました。
成王と子の康王(釗)の時代は太平な世となり、「成康の治」として称えられています。
 
成王が死んだ日(十六日)、召公・奭が仲桓と南宮毛に命じて斉公・呂伋に従わせました。二人はそれぞれ武器を持ち、百人の勇士を従えて南門の外で太子・釗を出迎えます。太子・釗は側室に入れられました。
 
丁卯(十八日)、葬礼が制定されました。
 
癸酉(二十四日)、召公・奭が官人に命じて葬儀に用いる器物を準備させました。成王の礼服や机、玉器、車等が配置されます。
祖廟の周りには武器をもった衛兵が冕(礼帽)を被って東西の堂の周りに立ちました。公卿や諸侯も中庭に集まっています。
準備が終わると、礼服を着た太子・釗が堂に登り、即位の儀式を行いました。太子・釗は康王とよばれます。
儀式が終わると公卿・諸侯が廟門を出ました。康王は応門内に移動します。召公・奭が西方の諸侯を率いて門の左に、畢公・高が東方の諸侯を率いて門の右に入りました。康王は諸侯の拝礼を受けて答礼します。
召公・奭と芮伯が康王に対して、文王と武王が王業を成し遂げたのは容易な事ではなかったと語り、倹約節約に励み、欲を減らし、篤信によって天下に臨まなければいけないと諭しました。
康王は文王・武王の業を継ぐことを諸侯に宣言し、同時に「汝等の身は朝廷の外にあるが、心は王室になければならない」と命じました。新王の命を受けた公卿・諸侯は拝礼して退出します。
康王は礼服を脱いでから側室に戻り、喪服を着ました。
成王の死から康王の即位までは『尚書』の『顧命』および『康王之誥』に詳しく書かれています。
 
 
 
次回は康王の時代です。