西周時代25 共和(一) 信史時代 諸侯の状況

今回から共和時代です。

共和時代は中国史において非常に重要な意味を持ちます。それは共和元年から正確な年が分かるようになるからです。
恐らく「国人暴動」によってそれ以前に作られた多くの史書が紛失したのだといわれています。厲王出奔以前の出来事を現在使われている西暦にあてはめることは非常に困難で、例えば周建国という大事もいつの事かははっきりしません。しかし共和以降はほぼ明確にいつの出来事かが分かるようになりました。
台湾の作家・柏陽は『中国史年表』の中で共和以降を「信史時代」と名付け、こう解説しています。
 
信史時代
紀元前九世紀の60年代から、中国は文字を使って歴史を残すようになり、このときから西暦20世紀の現在まで、三千年間、絶えることなく続いている。これは世界文明史上、最も偉大な奇跡の一つである。
「信史時代」というのは、歴史上の事件が全て文字によって検証できる時代である。
ただし、文字による記載が真実かどうかを見極めるのは、歴史学者の研究と判断に委ねられている。
 
 
共和時代に入ると、周王室だけでなく諸侯の在位年数もかなり明確になります。『史記・十二諸侯年表』には共和元年が主要国の何年にあたるかが書かれています。
以下、『史記(『世家』と『十二諸侯年表』)および『資治通鑑外紀』を元に主要国(衛、曹、燕、蔡、斉、宋、晋、秦、陳、魯、楚)の状況を列記します。
 
では康叔の死後、子の康伯・(または「」)が立ちました。康伯は康王の大夫となりました。
康伯が死んで子の考伯が立ち、考伯が死んで子の嗣伯が立ち、嗣伯が死んで子の●伯(または「疌伯」「摯伯」。●は「广」の中に「疌」が立ち、●伯が死んで子の靖伯が立ち、靖伯が死んで子の貞伯(または「箕伯」)が立ち、貞伯が死んで子の頃侯が立ちました。
史記・衛康叔世家』によると、頃侯は夷王に厚い賄賂を贈ったため、伯爵から侯爵に改められたとしています。
しかし『資治通鑑外紀』は頃公元年を魯献公三十二年(厲王十六年)としており、頃公が賄賂を贈ったのは夷王ではなく厲王としています。
また、『史記・衛康叔世家』の注索隱)では、衛康叔は元々「侯爵」に封じられていたので、その子・康伯から貞伯に至る数代の「伯」は「伯爵」ではなく「方伯(諸侯の長)」を意味であり、頃公の代になって「方伯」の任から外されたため、「伯」を名乗らなくなったとしています。恐らく『索隱』の解釈が正しいです。
資治通鑑外紀』は頃公の時代から仁人がいなくなり、小人が君主の傍にいるようになったため、衛の風紀が変化したと書いています。
頃侯は在位十二年で死に、子の釐侯が立ちました。
釐侯十三年に厲王が彘に出奔し、共和時代が始まりました。
 
では叔振鐸が死んでから子の太伯・脾が立ち、太伯が死んで子の仲君・平が立ち、仲君・平が死んで子の宮伯・侯が立ち、宮伯・侯が死んで子の孝伯・雲が立ち、孝伯・雲が死んで子の夷伯・喜が立ちました。
夷伯の二十三年に厲王が出奔しました。
 
では召公から九世を経て恵侯に至りました。この間の詳細は失われています。
資治通鑑外紀』は恵侯元年を魯献公三十四年、厲王十八年としています。
恵公二十四年に厲王が出奔しました。
 
では蔡仲が死んで子の蔡伯・荒が立ち、蔡伯・荒が死んで子の宮侯が立ち、宮侯が死んで子の厲侯が立ち、厲侯が死んで子の武侯が立ちました。
資治通鑑外紀』は武侯元年を魯献公三十五年、厲王十九年としています。
武侯二十三年に厲王が出奔しました。
 
では丁公が死んで子の乙公・得が立ち、乙公が死んで子の癸公(または「祭公」)・慈母が立ち、癸公が死んで子の哀公・不辰(または「不臣」)が立ちました。哀公は狩猟に耽っていたようです。
哀公が紀侯の讒言に遭って夷王に殺されたことは既に書きました(夷王三年参照)
哀公を継いで弟・静が立ちました。これを胡公といいます。胡公は斉の都を栄丘から薄姑に遷しました。
後に哀公の同母弟・山が胡公を怨み、徒党と栄丘の人を率いて胡公を襲いました。斉の大夫・騶馬繻が胡公を貝水に沈めて殺し、山が自立します。これを献公といいます。
献公は即位元年に胡公の子を駆逐し、都を薄姑から臨菑に遷しました。『資治通鑑外紀』はこの年を魯献公三十九年、厲王二十三年としています。
献公は九年で死に(厲王三年参照)、子の武公・寿が立ちました。
武公九年、厲王が出奔しました。
 
では微子啓(開)が死んで弟の衍が立ちました。これを微仲といいます。微子啓が弟を後継者に選んだのは、孫の腯に位を継承させることを避けるため、または微子啓の嫡子が先に死んだため、商殷の礼に基づいて弟を後継者にしたといわれています。
微仲が死んで子の宋公・稽が立ちました。諡号がないため「宋公」とよばれます。宋公・稽が死んで子の丁公・申が立ち、丁公が死んで子の湣公・共が立ち、湣公が死んで弟の煬公・熙が立ちました。しかし湣公の子・鮒祀(または「魴祀」)煬公を殺しました。鮒祀は湣公の庶子だったため、兄の弗父何湣公の太子)に即位を勧めましたが、弗父何が拒否したため、「私が即位するべきだ」と言って爵位を継ぎました。これを厲公といいます。
厲公が死んで子の釐公・挙が立ちました。
釐公十七年に厲王が出奔しました。
 
では晋侯・爕(唐叔虞の子)が死んで子の武侯・寧族(または「曼期」「曼旗」)が立ち、武侯が死んで子の成侯・服人が立ちました。『資治通鑑外紀』は、この頃、唐から曲沃に都を遷したとしています。
成侯が死んで子の厲侯・福(または「輻」)が立ち、厲侯が死んで靖侯・宜臼が立ちました。唐叔虞から靖侯までの六代は詳しい年代が分かりません。
資治通鑑外紀』は靖侯元年を魯献公四十年、厲王二十四年としています。
靖侯十七年に厲王が出奔しました。
 
では秦嬴を号した非子が死んで子の秦侯が立ちました。『資治通鑑外紀』は秦侯元年を魯献公四十一年、厲王二十五年としています。
秦侯は在位十年で死に、子の公伯が立ちました。
公伯は三年で死に、子の秦仲が立ちました。
秦仲が即位して三年後、厲王が無道だったため諸侯が離反し始めました。西戎も周王室に背き、犬丘に住んでいた大駱(非子の父)の一族が滅ぼされました。『竹書紀年』(今本)はこれを厲王十一年のこととしています。
秦仲四年に厲王が出奔しました。
 
では胡公が死んで子の申公・犀侯が立ち、申公が死んで弟の相公・羊が立ち、相公が死んで申公の子である孝公・突が立ち、孝公が死んで子の慎公・圉戎が立ちました。慎公は厲王の時代にあたります。
慎公が死んで子の幽公・寧が立ちました。『資治通鑑外紀』は幽公元年を魯献公四十四年、厲王二十八年としています。
幽公は淫荒・昏乱・遊蕩だったため、国人も感化されました。『詩経・陳風』の『宛丘』と『東門之枌』は頽廃した陳の風紀と幽公を風刺した詩といわれています。
幽公十二年に厲王が出奔しました。
 
は献公の即位まで紹介してきました(懿王十七年参照)
献公が死んで子の慎公(または「真公」)・濞(または「執」「摯」「鼻」)が立ちました。献公の在位年数は、『史記・魯周公世家』では三十二年、『資治通鑑外紀』では五十年、一説として三十六年としています。
公十四年に厲王が出奔しました。
 
では熊渠が死んで子の熊摯紅が立ちましたが、弟(恐らく熊摯疵)が熊摯紅を殺して自立し、熊延と名乗りました。
その熊延が死に、子の熊勇が立ちました。『資治通鑑外紀』によると、熊勇の元年は魯慎公元年、厲王三十五年にあたります。
熊勇の六年に厲王が出奔しました。
 


次回は共和時代の年代記です。