西周時代26 共和(二) 共和年間(前841~828年)

今回は共和時代です。


厲王十三年 共和元年
庚申 前841
 
[] 厲王が彘に亡命したため、共和時代が始まりました。厲王亡命の翌年が共和元年です。西暦紀元前841年にあたります。
『竹書紀年』(今本)によると、執政をすることになった共伯・和は行いを正し、賢人を愛したため、諸侯に称賛されました。厲王が出奔すると諸侯が共伯・和に天子の位に登ることを勧めましたが、共伯・和はそれを拒否して王の代わりに政治を行うことにしました。
 
[] 晋靖侯が在位十八年で死に、子の釐侯(または「僖侯」)・司徒が立ちました。
釐侯は吝嗇で、節約の程度がはげしく礼から外れていました。国人がそれを憂います。唐の風紀がここから変わりました。
 
 
厲王十四年 共和二年
辛酉 前840
 
[] 西北の玁狁が宗周・鎬京の西郊を侵しました。
 
[] 召穆公が師を率いて荊野を攻めました。荊蛮が周の東南を侵したようです。
召穆公は荊蛮を洛水まで撃退して帰還しました。
 
 
厲王十五年 共和三年
壬戌 前839
 
 
厲王十六年 共和四年
癸亥 前838
 
[] 蔡の武侯が在位二十六年で死に、子の夷侯が立ちました。
 
[] 楚子・熊勇が在位十年で死に、弟の熊厳が継ぎました。
 
 
厲王十七年 共和五年
甲子 前837
 
 
厲王十八年 共和六年
乙丑 前836
 
 
厲王十九年 共和七年
丙寅 前835
 
[] 曹の夷伯・喜が在位三十年で死に、弟の幽伯・彊(または「強」)が立ちました。
 
 
厲王二十年 共和八年
丁卯 前834年
 
 
厲王二十一年 共和九年
戊辰 前833
 
 
厲王二十二年 共和十年
己巳 前832
 
[] 大旱が襲いました。
 
[] 陳の幽公が在位二十三年で死に、子の釐公・孝が立ちました。
 
 
厲王二十三年 共和十一年
庚午 前831
 
[] 大旱が襲いました。
 
[] 宋の僖公(釐公)・挙が在位二十八年で死に、子の恵公・立ちました。
 
 
厲王二十四年 共和十二年
辛未 前830
 
[] 大旱が襲いました。
 
[] 杞の武公が在位四十七年で死に、子の靖公が立ちました。
 
 
厲王二十五年 共和十三年
壬申 829
 
[] 大旱が襲いました。
 
[] 『竹書紀年』(今本)によると、この年、楚子・熊厳が死にました。しかし『史記・楚世家』『史記・十二諸侯年表』は熊厳の在位年数を十年としているので、翌年(共和十四年)のことになります。『資治通鑑外紀』も翌年に書いています。
熊厳には四人の子がいました。長子は伯霜、中子は仲雪、次子は叔堪(または「叔湛」「叔熊」)少子・季徇(または「季紃」)です。熊厳を継いで長子・熊伯霜が立ちました。これを熊霜といいます。
 
 
厲王二十六年 共和十四年
癸酉 前828
 
[] 大旱が襲いました。
 
[] 厲王が亡命先の彘で死にました。
厲王の在位年数を二十六年とするのは『竹書紀年』(今本)の記述です。『史記・周本紀』『資治通鑑前編』は三十七年に「国人暴動」が起きて五十一年に厲王が死んだとしています。また、『資治通鑑外紀』は厲王四十年に「国人暴動」が起きて五十四年に厲王が死んだとしています。
 
当時、大旱が久しく続いており、家屋の火災が相次ぎました。
汾王(厲王)が死ぬと朝臣が大陽(地名?亀の名?)で卜いました。その結果、旱の原因は「厲王の祟り」と出ました。
この頃、厲王の太子・静が召公の家で成長したため、二相周定公と召穆公)が太子を王に立てました。太子・静は「靖」とも書かれます。
執政をしていた共伯・和が政治を返して帰国すると、大雨が降りました。
共伯・和は至上の徳を持ち、尊貴な位に立っても喜ばず、廃されても怒ることなく、逍遥と去って共山の首(共国の主)に戻ったといいます。
 
太子・静は宣王とよばれます。



次回から宣王の時代です。