春秋時代11 東周桓王(六) 繻葛の戦い 前707年

今回も東周桓王の時代です。
 
桓王十三年
甲戍 707
 
[] 春正月、陳桓公が在位三十八年で死にました。
陳で内乱が起き、文公の子・佗(または「他」。桓公の弟。大夫・五父)桓公の太子・免を殺して即位しました。国内が混乱し、人々が分散していたため、訃告が二回発せられました。
『春秋』が陳桓公の死んだ日を「甲戌(十二月二十一日)」と「己丑(正月初六日)」としているのは訃告が二回出されたためです。
 
尚、『史記・陳世家』は公子・佗と大夫・五父を別人としていますが誤りです。翌年に再述します。
 
[] 夏、斉釐公と鄭荘公が紀に入って会見し、その機に杞国を襲おうとしました。しかし杞国はそれを察知しました。
 
[] 桓王が周大夫・仍叔(または「任叔」)の子を魯に送って聘問しました。
 
[] 陳が桓公を埋葬しました。
 
[] 魯が祝丘に築城しました。
 
[] 周王朝が鄭伯(荘公)の政治権力を奪って虢公を重用したため、鄭は入朝しなくなりました。
秋、桓王が蔡・衛・陳を率いて鄭を討伐しました。鄭荘公も兵を出して抵抗します。
 
王軍は桓王が自ら中軍を率い、虢公・林父(周の卿士)が右軍を率いて蔡・衛が従い、周公・黒肩(鄭荘公に代わって卿士になりました)が左軍を率いて陳が従いました。
 
鄭の公子・突(字は子元)が荘公に「左拒(拒は方陣を使って蔡・衛師を防がせ、右拒を使って陳師を防がせましょう」と進言し、更にこう言いました「陳は内乱のため、民には闘志がありません。先にこれを攻撃すれば必ず奔走します。それを見た王の兵は混乱し、蔡と衛もそれを支えることができず先を争って逃げ出すでしょう。その後、集中して王の軍を攻めれば必ず成功します。」
鄭荘公はこれに従いました。曼伯が右拒を、祭仲足が左拒を率い、原繁と高渠彌(または「高渠眯」)が中軍を率いて荘公を守り、「魚麗」という陣を構えました。前に偏(戦車二十五乗)、後ろに伍(百二十五条乗)を置き、伍が前面(偏)の隙間を補って進む強固な陣です。
周王軍と鄭軍は繻葛で戦いました。鄭荘公が左右両方の拒に命じました「大旗をなびかせ戦鼓を敲け!」
鄭の両翼が進むと蔡、衛、陳の兵は逃走を始めます。桓王の中軍も混乱したため、荘公は兵を合流させて桓王を攻めました。王軍が大敗します。
鄭の祝聃(または「」)が射た矢が桓王の肩に中りましたが、桓王は指揮を続けました。
祝聃が更に攻撃をかけようとしましたが、荘公が言いました「君子は人を追いつめないものだ。相手が天子ならなおさらだ(これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・鄭世家』では「長者を犯すのは難しいものだ。相手が天子ならなおさらだ」と言っています)。既に自国を守ることができた。社稷が無事ならそれで充分だ。」
 
夜、鄭荘公は祭足を派遣して桓王を慰問し、併せて桓王の左右の近臣も慰労しました。
 
この戦いは「繻葛の役」とよばれています。周王が諸侯の軍に敗北し、怪我まで負ってしまいました。周王室の威信は完全に失墜し、「天下の主」という地位を喪失しました。
この後、本格的に大国が覇を競う時代に入っていきます。
鄭はこの頃が全盛期で、荘公は「小覇(小さい覇者)」と称されました。
 
[] 魯桓公が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[] 魯で螽(蝗)害がありました。
 
[] 冬、州公が曹に入りました。州は姜姓の国です。都が淳于にあったため、淳于公ともいいます。州国で危難があったため、国を出たようです。
 
『春秋左伝正義』を見ると、魯隠公四年の「莒が杞を攻撃する」という記述で杞国の説明をしており、州国も登場します。それによると杞国は元々陳留を都としていましたが、後に淳于に遷りました。州国は杞国の攻撃を受けており、国君(淳于公)は亡国を察して亡命したのかもしれません。
 
[] 『今本竹書紀年』はこの年の冬、「曲沃武公が晋小子侯を誘い出して殺した」と書いています。しかし『春秋左氏伝』は二年後の魯桓公七年(桓王十五年)、『史記・十二諸侯年表』は晋小子侯四年(桓王十四年)のこととしています。
 
[十一] この年、戎族が芮伯・万を郊に迎えに行きました。郊は周に属する邑です。または「郊」ではなく「郟に迎えに行った」とすることもあります。「郟」は王城・洛邑を指します。
芮伯・万は前年、周軍と秦軍(または虢軍)に攻められて周洛邑に連れて行かれました。今回、戎族に迎えられて帰国したようです。

尚、これは『竹書紀年』(古本・今本)の記述で、『春秋左氏伝』は桓王十八年に秦が芮伯・万を芮に送り返したとしています。『春秋左氏伝』が正しいとしたら芮伯は洛邑ではなく、秦に連れて行かれたことになります。

[十二] 『今本竹書紀年』によると、この年、晋曲沃が荀国(姫姓の国)を滅ぼしました。武公は大夫・原氏黯に荀の地を与えます。原氏は姓で黯は名、字は息です。荀の地を与えられてからは荀叔とよばれるようになりました。通常は「荀息」と書かれます。
 
『春秋左氏伝』には三年後の魯桓公九年(桓王十七年)に「荀が曲沃を攻めた」という記述があります。荀息は武公とその子・献公に重用されたので曲沃を攻撃したとは思えません。『春秋左氏伝』の記述が正しいとしたら、曲沃が荀国を滅ぼしたのはもっと後のことになります。



次回に続きます。