春秋時代22 東周恵王(一) 楚文王の死 周の内乱 前676~675年
今回から東周恵王の時代です。
恵王
釐王が死に、子の閬(または「毋涼」。『帝王世家』では「涼洪」)が立ちました。これを恵王といいます。
恵王元年
乙巳 前676年
『春秋左氏伝』はこれを非礼としています。虢公と晋侯では爵位も官位も異なるため、同等の宝物を下賜するのは相応しくないとされました。
[二] 三月、日食がありました。
[四] 夏、戎が魯を攻めました。荘公が反撃して済水西まで追撃しました。
[五] 秋、魯で蜮(害虫)の害がありました。
[六] かつて楚武王が権を占領し、大夫・鬬緡を尹に任命しました。
権は子姓の国です。楚に滅ぼされて県が置かれました。権県は中国最初の県といわれていますが、それがいつの事かは分かりません。鬬緡が任命された尹は県尹で、県令に当たります。
暫くして鬬緡が権県で叛しました。楚軍は権県を包囲し、鬬緡を殺しました。更に権県の民を那処に遷し、閻敖に那処を管理させました。
武王が死に文王が即位すると、楚は巴人と共に申国を攻めました(東周荘王九年、楚文王二年、前688年)。しかしこの時、閻敖が巴人を殺戮するという事件がありました。巴人は楚に叛して那処を攻め、占領します。更に巴軍は楚都・郢の城門に迫りました。
閻敖は涌水を泳いで逃げましたが、文王は閻敖を殺しました。これが原因で閻敖の一族が反旗を翻します。
この年(楚文王十四年)の冬、楚の内乱(閻敖一族の乱)につけ込んで巴人が楚を攻撃しました。翌年に続きます。
[四] この年、秦の暦に三伏の節が設けられました。
「三伏」というのは一年で最も暑い時期のことです。夏至から数えて三回目の庚日を起点にして、そこから十日間を「初伏(頭伏)」、立秋後の最初の庚日から十日間を「末伏(三伏)」、「初伏」の最後の日と「末伏」の最初の日の間を「中伏(二伏)」としました。「初伏」と「末伏」はそれぞれ十日間と決まっていますが、「中伏」は暦の関係で十日間か二十日間になります。合計三十日か四十日続く三伏の中で、中伏が最も暑くなります。
[五] 秦徳公は三十三歳で即位し、この年、在位二年で死にました。
三人の子がおり、順番に即位していきました。長子は宣公、中子は成公、少子は穆公です。
徳公の跡を長子・宣公が継ぎました。
[六] 『今本竹書紀年』によると、この年、周陽(邑)の市で白兔が舞ったといいます。しかし『古本竹書紀年』は同じ内容を晋献公二十五年(東周襄王元年、前652年)に書いています。
[七] 『史記・陳杞世家』によると、この年、周恵王が陳女を娶って王后にしました。
恵王二年
丙午 前675年
[一] 春、楚文王が兵を発して巴軍に反撃しましたが、津で大敗しました。文王は兵を率いて退却します。ところが城門を管理する鬻拳(楚と同姓。宗室の後裔のようです)が文王の敗戦を責めて入城を拒否しました。
発奮した文王は兵を率いて楚都・郢から離れ、黄国(嬴姓の国)を攻撃しました。黄軍は踖陵(黄地)で敗れます。鬻拳のおかげで勝った戦といえます。
文王は兵を還して湫(または「椒」)まで来た時、病に倒れました。
文王が言いました「莧嘻(または「筦蘇」「筦饒」)はしばしば義によってわしに抵抗し、礼によってわしに逆らった。彼と一緒にいたら不愉快になったが、時が経つにつれて得るものがあると知った。もしわしが生きている間に爵位を与えなければ、後世の聖人がわしを謗るであろう。」
文王は莧嘻に五大夫の爵位を与えました。
文王が言いました「申侯伯はわしの意思に応じることに長けており、わしが欲しいと思った物を先に準備することができた。彼と一緒にいたら安心できたが、時が経つにつれて失うものがあると知った。もしわしが生きている間に彼を疎遠にしなければ、後世の聖人がわしを謗るであろう。」
文王は申侯伯を追放しました。
申侯伯は鄭に行き、国君の意思に沿って動いたため、三年で国政を任せられるようになったといいます。しかし鄭文公の時代になって殺されました。
莧嘻と申侯伯の話は『呂氏春秋・仲冬紀・長見』にあります。
夏六月庚申(十五日)、文王が死にました。鬻拳が文王を夕室(恐らく地名)に安葬します。しかしその後、鬻拳は自殺しました。
楚人は鬻拳を文王の陵墓に造られた地下宮殿の前庭に埋葬しました。文王の地下宮殿を守らせるためです。
かつて鬻拳は楚文王を強く諫めたことがありました。しかし文王が聞き入れないため、鬻拳は武器を使って文王を脅迫し、無理に従わせました。その後、鬻拳は「私は国君を武器で脅迫した。これより大きい罪はない」と言って自分の両脚を切断しました(刖刑)。
文王はその忠心を認めて鬻拳を大閽(城門管理)に任命しました。鬻拳は楚人から大伯とよばれ、その子孫も大閽の職を継ぎました。
文王の子・熊囏が即位しました。これを堵敖(または「杜敖」「荘敖」)といいます。
[二] 衛国の公女(衛文公の妹。文公は東周恵王十七年、前660年に即位)が陳宣公に嫁ぐことになり、魯は衛女のために媵を出しました。諸侯が婚姻をする時、新婦の付き添いとして庶出の女性が送られました。これを媵といいます。媵は通常、そのまま新郎の妾になります。
[五] 冬、斉・宋・陳が魯の西鄙(西境)を攻撃しました。
[六] 以前、東周荘王が妾の姚氏(王姚。王の妻妾は「王」の後に自分の姓をつけました)を寵愛し、子頽を産みました。釐王の弟になります。子頽も荘王に寵愛され、蔿国(子国)が子頽の師に任命されました。
恵王が即位すると、恵王は蔿国の圃(野菜を栽培する園)を奪って囿(禽獣を飼う園)にしました。
更に恵王は王宮の近くにあった辺伯の屋敷や、子禽祝跪(四文字で一人)、詹父の田(土地)、膳夫・石速の俸禄を奪います。
これが原因で蔿国、辺伯、石速、詹父、子禽祝跪の五大夫が蘇氏(蘇子)と共に叛しました。蘇子は西周武王時の司寇・蘇忿生の子孫です。桓王八年(前712年)に周王室が蘇氏の采邑を鄭に与えたため、周王室を怨んでいたのかもしれません。
秋、五大夫が子頽を奉じて恵王を攻めました。『春秋左氏伝(荘公十二年)』によると、五大夫は失敗して温に奔りました。蘇子は子頽と共に衛に奔ります。
『史記・周本紀』は恵王が敗れて温に逃げたとしていますが、温は元々蘇子の邑だったので、恐らく『春秋左氏伝』が正しいです。
子頽を迎え入れた衛は燕と共に周を攻撃しました。
かつて周王室が衛君・黔牟を援けたため(東周荘王九年、前688年)、衛恵公は周を怨んでいたようです。そこで衛は王子頽を支持しました。
王子頽を援けたもう一つの国である燕は、恐らく姞姓の南燕です。『史記・燕召公世家』にこの事件が記載されていますが、『燕召公世家』は北燕の記録です。衛と共に周を攻めるには、少し遠すぎるようです。『史記』の記述は南燕と北燕を混同していることがあります(『史記』には南燕の世家がありません)。
また、『燕召公世家』には「燕荘公十六年に宋・衛と共に周恵王を攻撃した」と書かれていますが、『宋微子世家』にはこの大事件がありません。『衛康叔世家』も周を攻めたのは衛と燕の二国としています。恐らく、『燕召公世家』の誤りです。
恵王は鄭に逃走します。鄭は虢と共に恵王を擁し、周王となった頽と対立しました。
[七] この年、蔡哀侯が在位二十年で死に、子・肸が立ちました。これを穆侯(繆侯)といいます。
蔡哀侯が蔡で死んだのか楚で死んだのかははっきりしません(東周荘王十三年・前684年参照)。
次回に続きます。