春秋時代24 東周恵王(三) 田敬仲出奔 前672年(1)

今回は東周恵王五年前篇です。
 
恵王五年
己酉 前672
 
[] 春正月、魯が大赦を行いました。前年、文姜桓公夫人)が死んだことが大赦の原因かもしれません。
癸丑(二十三日)、文姜を埋葬しました。
 
[] 陳宣公には御寇(または「禦寇」)という太子がいました。しかし後に妾を寵愛し、款という子が生まれると、太子廃立を考えるようになりました。
この年、宣公が公子(太子)・御寇を殺しました。
 
御寇はかねてから公子・完(陳厲公の子。大夫)と仲が良かったため、公子・完は危険を避けるために斉へ走りました。公子・完は「敬仲」と書かれます。敬仲は諡号です。
また、顓孫という人物も斉に奔り、後に魯に遷りました。
顓孫は『通志・氏族略』の「顓臾氏(巻二十六)」に「陳大夫・顓孫」とあり、同書「顓孫氏(巻二十七)」に「陳公子・顓孫」とあります。公子・完と同じく陳の公族のようです。
 
桓公は亡命してきた敬仲を卿に任命しようとしましたが、敬仲は辞退してこう言いました「羈旅寄生の臣)が幸いにも赦しを得て罪を逃れ、負担を下ろすことができました。これは主君の恩恵によるものであり、既に多くのものを得ています。高位を得て官員の誹謗を招くつもりはありません。『詩』には『高い車に乗る君王が、弓で私を招く。私が行きたくないのではない。恐れるのは我が朋友だ(翹翹車乗,招我以弓,豈不欲往,畏我友朋)』とあります。」
この詩は現在の『詩経』には収録されていないようです。車に乗る君王は桓公を指し、弓で招くというのは士として登用するという意味のようです。
桓公は敬仲を工正(百工の長)に任命しました。
 
敬仲が桓公を招いて宴を開きました、酒がまわって楽しくなった桓公は夜になっても「火を灯して続けよう」と言いました。しかし敬仲はこう言いって断りました「昼に君王と宴を開くのは聞いたことがありますが、夜に君王と宴を開くとは聞いたことがありません。」
酒を飲んでも度を超えることなく、礼を成すことができたとして、敬仲は称えられました。
 
以前、陳の大夫・懿氏懿仲。『史記』の『陳杞世家』と『田敬仲完世家』は斉の大夫としていますが、恐らく誤りです。楊伯峻『春秋左伝注』参照が敬仲に娘を嫁がせようとして占いました。その結果、占者がこう言いました「吉です。『鳳皇(鳳は雄。皇は凰と同じ意味で雌)が共に飛び、鳴き声は睦まじい。嬀(舜の姓。陳は嬀姓の国です)の後は、姜(斉の姓)で養われる。五世で栄えて正卿と同等になり、八世の後に最も大きくなる(鳳皇于飛,和鳴鏘鏘,有嬀之後,将育于姜。五世其昌,並于正卿。八世之後,莫之與京)。』」
 
陳厲公の母は蔡人でした。そのため、蔡人が五父(陳佗)を殺して厲公を即位させました(東周桓王十四年、前706年)
敬仲が幼い頃、周史(周の太史)が『周易』を持って厲公に会いに来ました。厲公は周史に命じて筮で子(敬仲)を占わせます。その結果、こう言いました「これは『観国之光,利用賓于王』です。この人物は後に陳に代わって国を擁することになるでしょう。しかしここではなく、異なる国においてです。また、この身ではなく子孫においてです。」
『春秋左氏伝』は占の内容を説明していますが、難しくて理解ができないので省略します(周太史の占に関しては東周桓王十五年・705年にも書きました)
 
後に楚が陳を一度滅ぼすことになります(東周景王十一年、前534年)。その時、陳桓子(敬仲の子孫)が斉で強大になっていました。陳が完全に滅んだ時(敬王四十一年、前479年)には陳成子が斉で政権を握りました。戦国時代に入ってから姜姓の斉は陳氏に乗っ取られます。
 
敬仲は田という地を食邑としたため、田氏を名乗りました。もしくは元々陳氏でしたが、母国の名を称することを嫌って「陳」の発音に近い「田」を氏としたともいわれています。その子孫は陳氏と田氏が併用されます。
 
[] 秋七月丙申(初九日)、魯荘公が斉の高徯と防(東防)で会盟しました。
 
[] 冬、魯荘公が斉に入って幣帛を納めました。
 
[] この年、秦宣公が密畤を造りました。
史記・封禅書』によると、以前、秦文公が夢で天上の黄蛇を見ました。蛇は天から地に向かって伸び、その口は鄜という地域にありました。夢から覚めた文公は鄜に畤(祠廟)を建てて白帝を祀りました。これを鄜畤といいます(東周平王十五年、秦文公十年、前756年)
その八十四年後(本年)、宣公が渭南に密畤を建てて青帝を祀りました。
更に霊公の時代になって(東周威烈王四年、秦霊公三年、前422年)、呉陽に上畤を建てて黄帝を祀り、下畤を造って炎帝(赤帝)を祀りました。
以上の四畤(鄜畤・密畤・上畤・下畤)を秦雍四畤といいます。
秦が滅んで劉邦項羽と戦った時代(漢王二年、前205年)劉邦が関中に入って近臣に問いました「秦が祀った帝(上帝)は何だ?」
近臣が答えました「四帝です。白帝・赤帝・黄帝・青帝の祠があります。」
劉邦は「天には五帝がいるのに、なぜ今は四帝しかいないのだ」と言うと、黒帝のために祠を建てました。これを北畤といいます。
こうしてできた五カ所の祠を漢雍五畤といいます。
五畤をまとめるとこうなります。
密畤は青帝を祀り、東・木徳を象徴します。主は太皞です。
鄜畤は白帝を祀り、西・金徳を象徴します。主は少皥です。
下畤は赤帝炎帝を祀り、南・火徳を象徴します。主は神農です。
上畤は黄帝を祀り、中・土徳を象徴します。主は軒轅です。
北畤は黒帝(玄帝)を祀り、北・水徳を象徴します。主は顓頊です。
 
[] 秦が晋と河陽で戦って勝利しました。
 
[七] この年、楚の堵敖(荘敖)が弟の熊惲(または「熊頵」)を殺そうとしました。
熊惲は随国に逃走し、随人と共に反撃します。堵敖は殺されて熊惲が即位しました。これを成王といいます。
『春秋左氏伝』では堵敖三年、『史記・楚世家』『史記・十二諸侯年表』では荘敖五年のことになります。
 
 
 
次回に続きます。