春秋時代29 東周恵王(八) 楚令尹子元 魯臧文仲 前666年(2)

今回は東周恵王十一年の続きです。
 
[] 夏四月丁未(二十三日)、邾子・瑣が死に、子の文公・蘧が立ちました。
 
[] 楚の令尹・子元(武王の子。文王の弟)が文王夫人息嬀)を誘おうと思い、宮殿の傍に館を建てて「振万(武舞)」を催しました。
それを聞いた夫人が泣いて言いました「先君(文王)はこの舞を戦の準備のために用いました。しかし今、令尹は仇讎に対抗するために用いるのではなく、未亡人(私。文王夫人)の傍で用いています。ふさわしくありません。」
御人(侍人)がこれを子元に伝えると、子元が言いました「夫人が敵を忘れることがないのに、わしはそれを忘れていた。」
 
秋、子元が車六百乗を率いて鄭を攻撃し、桔(遠郊の門)に入りました。
子元、御彊彊)梧、耿之不比が旆(前軍)に、御彊の子)、王孫游、王孫喜が殿(後軍。しんがりになります。全軍の戦車が鄭の純門(外城の門)を入って逵市(大路の市)に至りました。
しかし鄭は内城の門を閉じませんでした。子元は罠を警戒し、楚言(楚の言葉)で命令を出して城から出ました。
子元が言いました「鄭には人材がいる。」
 
鄭の危急を知った斉・魯・宋が共に援軍を出しました。
子元は諸侯の援軍が迫っていると知り、夜の間に撤退しました。
 
鄭人は楚の攻撃を避けるため、桐丘に遷ろうとしていましたが、間諜が「楚営の帳幕に烏がいます」と報告したため中止しました。帳幕に烏が居るというのは、楚軍が陣を棄てて撤退したことを意味するからです。
 
子元は鄭から楚に還ると文王夫人に会うため王宮に住みました。射師廉。一説ではが諫めましたが、子元は射師を捕えて手枷をつけました。
 
[] 冬、魯が郿(または「微」)に築城しました。
 
[] 魯の麦と禾が大凶作でした。
大夫・臧文仲臧孫辰)莊公に言いました「四鄰の諸国と友好関係を結んで援け合い、諸侯の信任を得て、婚姻によってその関係を強化し、盟誓によってそれを固めるのは、国に苦難があった時のためです。名器を鋳造して宝財を蓄えるのは、民を苦しみから救うためです。今、国が病んでいるのになぜ名器を斉に贈って糧食を求めないのですか。」
荘公が「誰を使者にするべきか」と問うと、臧文仲が言いました「国を飢饉が襲った時は卿が国を出て糧食を求めるのが古の制度です。臣は卿の立場にいるので、臣を斉に派遣してください。」
荘公は臧文仲を送り出しました。
 
臧文仲の従者が言いました「国君が命じていないのに、なぜあなたは自らこの困難な役を請うたのですか。」
臧文仲が言いました「賢者は率先して危難に臨み、容易な事は他者に譲るものだ。官に居る者は事に臨むにあたって難から逃げないものだ。高い位に居る者は民を慈しみその禍患を憂いるものだ。こうして国家はやっと安定する。今、わしが斉に行かなかったら危難を避けることになる。上にいる者が下にいる者を憐れまず、官にいる者が怠惰であっては、君に仕えることはできない。」
 
臧文仲が鬯圭と玉磬(どちらも玉の宝器)を持って斉に入り、こう言いました「天災が流行し弊邑を襲いました。飢饉のために民が痩せ衰えています。このままでは周公と太公の祭祀を継続できなくなり、職貢(周王室への進貢)も困難となり、これが原因で罪を得る恐れがあります。このような状況なので、寡君(自国の主君)は先君(先祖)の宝器を惜しまず、貴国で余っている食糧との交換を請うために私を派遣しました。交換が成立すれば貴国で食糧を管理する官員の負担を減らし、弊邑の援けにもなり、正常に職(祭祀と進貢)を行うこともできます。寡君と臣下が貴君の恩恵を得るだけでなく、周公・太公および全ての神祇が祭祀を受けることができるようになります。」
桓公は玉器を臧文仲に返し、食糧を与えました。
 
[] 『資治通鑑外紀』はこの年、晋が翟柤という国を攻めたとしています。『国語・晋語一』の記述が元になっています。
献公が狩猟を行い、翟柤の方向で氛(凶気)を見つけました。陣に戻った献公はなかなか眠りにつけません。献公が郤叔郤豹)に話すと、郤叔虎はこう聞きました「床が合わないのですか?それとも驪姫が傍に居ないからですか?」
公は答えませんでした。
退出した郤叔虎は士蔿に会い、こう言いました「今晩、主君は眠りに就けないようだが、翟柤のためだろう。翟柤の君は利を独占してはばかることなく、その臣は争って媚び諂い、国君の耳目を塞ぐ佞臣が出世し、国君の意思に逆らって諫める者が退けられている。上は貪婪で不義、下は現状に満足して幸を欲している。節度のない国君はいるが諫臣はなく、貪婪な上はいるが忠直な下はいない。君臣上下とも私欲を満足させるために好き放題をしており、民の心は離散してまとまることがない。このような国に対して兵を用いて失敗するはずがない。これらのことは私からは報告しないが、汝から主君に伝えてくれ」
士蔿はその通りに報告しました。
喜んだ献公は翟柤を討伐します。郤叔虎が城壁に登ろうとすると部下達が言いました「政治を棄てて戦闘に参加するのはあなたの職責ではありません。」
郤叔虎が言いました「私には謀才がない。そのうえ壮事(力役)にも加わらなかったら、どうして主君に仕えることができるのだ。」
郤叔虎は率先して城壁を登り、柤を攻略しました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代30 東周恵王(九) 斉桓公の山戎遠征 前665~663年