春秋時代46 東周襄王(六) 里克と丕鄭の死 前650年

今回は東周襄王三年です。
 
襄王三年
辛未 前650
 
[] 春正月、魯釐公僖公)が斉に入りました
 
[] かつて温の蘇子(温子、温蘇子。『資治通鑑外紀』によると巳姓。西周司寇・蘇忿生の後裔の邑)が王子・頽を擁立しました(東周恵王二年、前675年)。王子・頽が敗れると、温蘇子は狄に奔ったようです。しかし蘇子は狄と共存できませんでした。
この年、狄人が温を攻めました。周襄王は蘇子がかつて王室に背いたことを憎んでいたため、温を援けませんでした。温は狄に滅ぼされ、蘇子は衛に奔りました。
但し、狄は温を領有せず兵を退きました。温は周王室の管轄下に置かれ、後に襄王が晋文公に与えることになります(東周襄王十八年、前635年)
 
[] 孔子が編纂した史書『春秋』はこの年の春正月に「晋の里克がその君・卓と大夫・荀息を殺した」と書いています。しかし『春秋左氏伝』は前年十一月のこととしています。『春秋左氏伝』は晋国に関する記述では晋が用いていた夏暦を使っていることがありますが、『春秋』は一貫して周暦(魯国は周暦を用いていました)を使っているため、二か月のずれが生じているようです。夏暦十一月は周暦の正月になります。
本来、周暦に合わせるべきかもしれませんが、私の通史も『春秋左氏伝』に従って昨年に晋君・卓子と荀息の死を記述しました。
 
[] 夏、斉侯と許男が北戎(山戎)を討ちました。
 
[] 晋恵公は即位できたら河西の城を秦に譲ると約束していましたが(前年)、約束を守るつもりはありません。そこで割譲が遅れることを謝罪するために丕鄭を秦に送りました。
丕鄭が秦穆公にこう言いました「夷吾は河西の地を貴君に譲ると約束し、今、幸いにも国に帰って即位することができました。しかし大臣達は『土地は先君の土地であり、新君は国外に亡命していた。なぜ勝手に秦に与えることができるのだ』と言って反対しています。寡人(恵公)は大臣を納得させようと努力していますが、力が及びません。よって謝罪に来ました。」
 
恵公は里克に与えると約束していた汾陽の邑も与えず、逆に権力を奪いました。
 
夏四月(これが晋が使っていた夏暦なのか周暦なのかは不明です)、周襄王が周公・忌父と王子・党(周の大夫)を晋に派遣し、斉の隰朋や秦の大夫と合流させて晋恵公の地位を承認しました。
 
恵公は人望厚い重耳が国外にいるため、里克の裏切りを恐れました。そこで国君弑殺の罪によって里克を殺すことで周王に自分の正義を示すことにしました。里克を殺す前に恵公は人を送って里克にこう伝えました「もし汝がいなかったら、わしはこの地位に即くことができなかった。しかし汝は二君と一大夫を殺した。汝の主君になるのは難しいことではないか。」
里克が言いました「二君を廃さなかったら主君は即位することができなかったではないか。臣に罪を加えたいのなら、余計な事を言う必要はない。臣は命に従うだけだ。」
里克は剣に伏して死にました。
 
丕鄭も本来は重耳の即位を願っていた一人ですが、恵公の使者として秦にいたため難を逃れることができました。丕鄭は恐れて秦に留まります。
 
これ以前に晋の人々は恵公の即位を風刺して歌を作りました「偽善者は偽善者に騙され、その土地を失う。奸策は奸策に騙され、その賄賂を失う。貪欲に国を得た者は、結局咎を受け、土地を失っても教訓を得ず、禍乱が起きる(佞之見佞,果喪其田。詐之見詐,果喪其賂。得国而狃,終逢其咎。喪田不懲,禍乱其興)
偽善者(佞)とは里克と丕鄭を指します。二人とも恵公を擁立することで食邑を得るはずでしたが、里克は殺され、丕鄭は秦に亡命しました(後に殺されます)
奸策(詐)は秦穆公を指します。穆公は徳のある重耳ではなく、貪婪な夷吾を選んで晋君に立てました。その結果、賄賂を得ることができませんでした。
晋国を得た恵公は後に韓原で秦に敗れて捕虜になり(東周襄王七年、前645年)、死後は子が重耳に殺されることになります(東周襄王十七年、前636年)
 
[] 晋恵公が秦から帰国する時、秦の穆姫(穆公夫人。恵公の姉)が賈君を夷吾(恵公)に託し、「諸公子(献公には九人の子がいました。申生・奚斉・卓子は既に死に、夷吾が即位しましたが、重耳をはじめ五人の公子がいたはずです)を晋に迎え入れなさい」と言いました。
賈君は太子・申生の妃とも献公の正妻ともいわれていますが、献公の正妻だとしたら年を取り過ぎているので、申生の妃という説の方が正しいようです。
即位した恵公は穆姫の命を無視して賈君と姦通し、諸公子を迎え入れようともしませんでした。
 
恵公は共太子(太子・申生)を改葬することにしました。申生は献公時代に自殺しましたが、太子の礼に則った葬儀が行われませんでした。
改葬の時、申生の棺がひどい異臭を放ちました。そこで晋の人々が風刺して歌いました「国君が正礼によって太子を埋葬しようとしたが、利を得ることはできなかった。誰が異臭を放っているのか。太子は正礼の葬儀に従おうとしない。国君が信義を標榜しながら誠意がないからだ。国には盗みを行った者が安全に生きていけるという法はない。弊害を改めなければ国の大命が傾くだろう。民は国君を恐れ、太子(または公子・重耳)を想う。皆の願いは彼が帰って来ることだ。国君が去る日を待って嘆息し、悲哀を抱く。歳は二七(十四年後)、国君の跡が途絶える。狄公子(重耳)よ、あなたこそ私達の頼みだ。国と家を安定させ、王を援けて諸侯を統率することになるだろう(貞之無報也。孰是人斯,而有是臭也。貞為不聴,信為不誠。国斯無刑,居倖生。不更厥貞,大命其傾。威兮懐兮,各聚爾有,以待所帰兮。猗兮違兮,心之哀兮。歳之二七,其靡有徴兮。若狄公子,吾是之依兮。鎮撫国家,為王妃兮)。」

以上は『春秋左氏伝僖公十年)』の記述です。『史記・晋世家』は当時このような童謡が流行ったとしています恭太子(共太子)を改葬した。その十四年後、晋は没落する。隆盛は兄(重耳)にある恭太子更葬矣,後十四年,亦不昌,昌乃在兄。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
郭偃が言いました「善事を成すのは難しいことだ。国君は共君の改葬を光栄なことと思って実行したが、逆に悪名を広めてしまった。人は内が美しければ必ず外に現れるものだ。それが民に伝われば、民に愛戴されるようになる。そして内心の悪も同じように自然に現れてしまう。だから行動は慎重にしなければならない。民は知っているのだろう。十四年後、国君の冢嗣(太子)が滅ぼされることを。公子・重耳が帰国することを民は予知している。もしも公子が帰ったら、必ず諸侯の伯(覇者)となって天子に会い、その光は民を照らすであろう。数は言(言葉)で記録され、魄(形に現れた予兆)は民意に導かれるものであり、光は明徳の輝きである。言によって表現され、民意によって導かれ、光によって明らかにされたのだ。これ以上待つことはない。公子の帰国を準備しよう。公子が帰る日は近い。」
 
[] 『春秋左氏伝僖公十年)』にこの頃の出来事として不思議な話が紹介されています。
秋、狐突が下国(曲沃)に行った時、太子・申生に遭いました。申生は狐突の車に乗り、狐突に御させて言いました「夷吾は無礼なので私が帝(上帝)に請うた。やがて晋は秦に与えられ、秦が私の祭祀を行うようになるだろう。」
狐突が言いました「神は異なる族の祭祀を受けず、民も異なる族を祀ることがないといいます。あなたの祭祀は途絶えてしまうでしょう。そもそも民に何の罪があるのですか。罪ない者を罰し、祭祀も途絶えるのです。よくお考えください。」
申生が言いました「わかった。改めて帝に請うことにしよう。七日後(『春秋左氏伝』は「七日」。『史記・晋世家』は「十日」。恐らく「七」の誤記)、新城の西辺で巫者が私の意志を伝える。」
狐突が巫者に会うことを約束すると申生は消え去りました。
七日後、巫者が言いました「帝は私が罪人を罰することを許した。韓の地で敗れるだろう。」
 
[] 晋恵公は里克を殺したことを後悔してこう言いました「冀芮(郤芮)が寡人()を誤らせたために、社稷の重鎮を殺してしまった。」
これを聞いた郭偃が言いました「国の事を考えることなく里克を殺すように進言したのは冀芮だ。しかし国の事を考えることなく里克を殺したのは国君自身だ。考慮することなく進言するのは不忠であり、考えずに殺すのは不祥だ。不忠は国君の罰を受け、不祥は天の禍を受ける。君の罰を受けたら誅殺され、天の禍を受けたら子孫が途絶える。見識のある者は忘れてはならない。禍は近くに迫っている。」
後に重耳(晋文公)が帰国し(東周襄王十七年、前636年)、冀芮は殺されます。
 
[] 秦に留まった丕鄭が秦穆公に言いました「晋人は夷吾を支持していません。実際は重耳の即位を望んでいます。呂甥(呂省、瑕甥、陰飴甥)、郤称、冀芮(郤芮)は秦に土地を与えることに反対しています。里克を殺したのも呂甥・冀芮の計によるものです。もし重い礼で彼等を招いて秦に留め、臣が晋君を駆逐して貴君が重耳を入れれば、必ず成功します。」
 
冬、秦穆公が三人を招くために泠至を晋に送りました。丕鄭も同行します。
丕鄭が晋に入る時、大夫・共華に会って言いました「晋に入っても大丈夫だろうか。」
共華が答えました「我々(里克・丕鄭の一党)も晋に留まりましたが無事です。あなたは使者として秦に赴いていただけです。問題ありません。」
 
一方、冀芮は丕鄭と秦の使者が来たと知り、呂甥等に言いました「秦の使者は幣(礼物)が重く言が甘い。これは我々を誘き出そうとしているのだ。」
そこで冀芮が恵公に進言しました「丕鄭が秦に赴いた時の礼物は薄かったのに、秦からの答礼が厚すぎます。丕鄭が秦国で我々を誘い出すように謀ったのでしょう。彼を殺さなければ禍難を起こします。」
恵公は丕鄭を殺しました。
 
大夫・共賜が共華に言いました「あなたは逃げないのですか?禍が迫っています。」
共華が答えました「丕大夫を国に入れたのは私だ。私は禍難を待つ。」
共賜が言いました「誰もそのことを知りません。逃げましょう。」
共華が言いました「いけない。自分で知っていながらそれに背くのは不信だ。人のために謀って逆に難を及ぼすのは不智だ。人を害して自分が死から逃げるのは無勇だ。この三つの大悪を背負ってどこに行けというのだ。汝は逃げよ。わしはここで死を待つ。」
 
恵公は祁挙および七輿大夫(左行・共華、右行・賈華、叔堅、騅、累虎、特宮、山祁)も殺しました。全て里克・丕鄭の一党です。
 
丕鄭の子・丕豹が秦に奔って秦穆公に言いました「晋君は大主(秦)を裏切り小怨(自分を支持しなかった者達)を憎み、里克を殺したため、民心を失いました。今また臣の父と七輿大夫を殺したので、彼を支持する者は国の半分に過ぎません。晋を攻めれば必ず晋君を駆逐できます。」
穆公が言いました「民衆を失っているのになぜ多くの大臣を殺すことができたのだ。大臣を誅殺することができたのは、国君と百姓が和しているからであろう。晋君の罪は死に値しない。死に値する罪を犯したら、国に留まることができないはずだ。勝敗とは予測ができないものだ。そもそも、晋侯による禍を受ける恐れがある者が全て国を離れたら、誰が国君を追い出すのだ。わしの決断を待て。」
穆公は丕豹の進言を却下しましたが、秘かに丕豹を用いることにしました。
 
[] 魯で大雪が降りました。



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