春秋時代50 東周襄王(十) 戦後の晋と秦 前645年(2)

今回は東周襄王八年の続きです。
 
[十一] 韓原で秦に敗戦した晋の大夫達は髪を乱したまま営舎を片づけ、恵公に従うため秦軍の後を追いました。
秦穆公が使者を送ってこう伝えました「汝等は何を心配しているのだ。寡人(私)は晋君に従って西に行き、晋の妖夢(恐らく太子・申生のお告げ。襄王三年、650年参照)を実現させようとしているだけだ。寡人の行為が度を過ぎているということはないだろう。」
晋の大夫が三拝稽首して言いました「貴君は后土を踏み、皇天を戴いています。皇天・后土とも貴君の言を聞きました。群臣は風下にいるだけです(晋の大夫は秦君の命に従うだけです)。」
 
恵公が即位した時、晋の人々が風刺の歌を作ったことは既に書きました(東周襄王三年、650年)偽善者は偽善者に騙され、その土地を失う。奸策は奸策に騙され、その賄賂を失う。貪欲に国を得た者は、結局咎を受け、土地を失っても教訓を得ず、禍乱が起きる(佞之見佞,果喪其田。詐之見詐,果喪其賂。得国而狃,終逢其咎。喪田不懲,禍乱其興)」という内容です。
偽善者(佞)とは里克と丕鄭で、恵公を擁立することで食邑を得るはずでしたが逆に殺されました。奸策(詐)は秦穆公を指し、晋恵公を擁立しましたが約束した賄賂を得ることができませんでした。
晋国を得た恵公は韓原で秦に敗れて捕虜になりました。
韓原の戦い後、晋の郭偃が言いました「民衆の口とは禍福の門だ。だから君子は民情を理解してから動き、民衆の言葉を戒めにして謀り、謀が成ってから実行するのだ。そうすれば失敗することがない。広く物事を検討し、倦むことなく考察を繰り返せば、警戒防備を完成させることができる。」
 
晋恵公が捕えられたと聞いた穆姫(秦穆公の夫人。臣恵公の姉)は秦穆公の太子・罃と子の弘および娘の簡璧を連れて薪を敷いた台に登り、使者に衰絰(喪服)を持って穆公を迎え入れさせました。この時、穆姫が使者を通して穆公にこう伝えました「上天が災を降し、二国の君が玉帛を持って会うのではなく、兵を起こして遭遇することになりました。晋君が朝、秦国に入ったら、婢子(私)は夜に死にます。夜、国に入るようなら、翌朝に死にます。国君の判断に任せます。」
秦穆公は晋恵公を郊外の霊台に置きました。
大夫が恵公を秦の国都に入れるように勧めましたが、穆公はこう言いました「晋侯を捕えたことは大きな成果だと思っていた。しかし帰ってすぐに喪を招くようでは、意味がないだろう。大夫にも何の役にも立たないはずだ。晋人は憂愁によってわしを動かし、天地を使ってわしを拘束した。晋の憂愁を考慮しなければ彼等の怒りを増加させるだろう。約束を守らなければ天地に背くことになる。怒りを増加させたら国君としての任を難しくし、天に背いたら不祥を招く。晋君を釈放するべきではないか。」

以上は『春秋左氏伝』の記述です。『史記・晋世家』はこの時の事をこう書いています。
繆公は晋恵公を犠牲にして上帝を祭ろうとしましたしかし繆公夫人は晋の姉だったため、衰絰(喪服)を着て泣きました
が言いましたを得たら楽(楽しみ。功績)になると思っていたが、このような結果になった。それに、かつて唐叔(晋の祖)が始めて封じられた時、箕子がこう言ったという『その子孫は必ず大きくなる。晋はまだ滅びるべきではないのだろう。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
王城(秦の地名)に入った穆公は改めて大夫を集めて言いました「晋君を殺すべきか、放逐するべきか、帰国させるべきか、復位させるべきか。どの方法が我々に利益があるだろう。」
公子・縶が言いました「殺すべきです。悪を重ねさせてはなりません。彼を放逐したら他の諸侯と結ぶ恐れがあります。帰らせたら国家に禍をもたらすでしょう。復位させたら晋の君臣が協力し合い、主君の憂いとなります。」
公孫枝(子桑)が言いました「いけません。大国(晋)の将士を中原で辱め、またその君を殺してしまったら、子は父の仇を討とうと思い、臣下は主君のために報復しようとするでしょう。そうなったら秦国が滅ぼされたとしても、天下の同情を得ることはできません。」
公子・縶が言いました「今の晋君を殺して終わりではありません。公子・重耳を代わりに立てるべきです。晋君の無道は誰もが知っており、公子・重耳の仁も知らない者はいません。大国に勝つのは武(武威)です。無道を殺して有道を立てるのは仁です。戦いに勝って後の害を除くのは智明智です。」
公孫枝が言いました「一国の将士を辱めてから、有道の者を国に入れて彼等を治めさせるというのは、相応しくないでしょう。相応しくないことをしたら諸侯の笑い者になります。戦いに勝って諸侯に笑われるようでは武とはいえません。弟を殺してその兄を立て、兄が我々を感謝して親族を忘れるようなら、仁とはいえません。もし兄が弟を殺されたことを忘れないようなら、我々が恩恵を施しても意味がなく、これでは智といえません。」
穆公が問いました「それならどうすればいい?」
公孫枝が答えました「晋はまだ滅びません。その君を殺しても怨みを買うだけです。史佚西周時代の賢臣)もこう言いました『禍を起こすべきではない。乱に頼るべきではない。怒りを増加させてはならない(無始禍,無怙乱,無重怒)』。怒りを増加させたら功績を立てることは難しく、人を虐げたら不祥を招きます。晋君を釈放して復位させ、講和しましょう。その代わりに晋君の嫡子(太子・を人質にとれば、我が国に害がないばかりか、大きな利益を得ることができます。」
穆公は納得して晋と講和することにしました。
 
晋恵公は秦が講和を考えていると知り、大夫・郤乞を晋に派遣して瑕呂飴甥(呂甥)にこれを伝えました。子金(呂甥の字)が郤乞にこう言いました「国人を集めて君命によって賞を与え、こう宣言するべきです『孤(私。ここでは恵公)は国に帰ることになったが、既に社稷を辱めた。卜をして太子・圉に位を譲ることにしよう。汝等は圉を国君に立てて仕えよ。』」
郤乞が言われた通りにすると、晋の人々は泣いて悲しみました。そこで晋は民衆の悲しみを解いて人心を得るために「爰田」を造りました。
爰田は轅田ともいいます。その内容には諸説がありますが、晋は臣民に広大な田地を与えたようです。分配する土地は晋の公田だけでは足りないため、国内各地で開墾が進められ、国が豊かになりました。
 
呂甥が群臣を集めて言いました「国君は戦に敗れて国外にいながら自分のことを憂慮せず、群臣を憂いている。これは慈恵の極みだ。どうやって国君に報いるべきだろう。」
群臣が意見を聞くと、郤乞が言いました「韓の戦いで我が国の武器は使い果たしてしまった。まずは税を集め、武器を整え、孺子(後継者)を補佐しよう。国君を失っても新君がおり、群臣が和睦して甲兵(武器)も増えたという噂を四方の隣国が聞けば、我々を好む者は支持し、憎む者は恐れるだろう。これが国の益となるはずだ。」
群臣は喜んで同意し、晋は兵制を改革して州兵を作りました。州兵とは地方で編制された軍です。
 
以前、晋献公が伯姫(穆姫)を秦に嫁がせることを筮で占いました。史蘇の占いでは「不吉」と出ます。その繇(占卜の辞)には「嬴(秦の姓)に姫(晋の姓)が敗れ、車が輹(軸)をはずし、その旗を焼き、出師に利がなく、宗丘(韓原の別名)で敗れる」「寇(敵)の弓が張り、姪(甥。恵公の太子・圉)が姑(父の姉妹。穆姫)に従う。六年して退き、自分の国に逃げ帰ってその家を棄てる(六年後に太子・圉が秦の家族を棄てて逃走することを指します)。その翌年、高梁(晋邑)の虚で(太子・圉が)死ぬ」とありました(『春秋左氏伝(僖公十五年)』は占いに関して詳しい解説がありますが、省略します)
公が秦に捕えられた時、こう言いました「先君が史蘇の占に従っていたら、わしはこうならなかった。」
それを聞いた韓簡が言いました「亀は象(形)であり、筮は数である。物は生まれてから象があり、象ができてから滋し(成長し)、滋してから数ができる(事象が生まれ育ってから占卜によって象徴される)。先君が損なった徳は筮から生まれたのではない。史蘇の占いに従ったところで何の益があるというのだ。『詩経』にはこうある『民の禍は天が降したのではない。和睦や憎しみは人によって作られる(下民之孽,匪降自天。僔沓背憎,職競由人)』。」
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代51 東周襄王(十一) 慶鄭処刑 前645年(3)