春秋時代64 東周襄王(二十四) 介之推 前635年(2)

今回は東周襄王十八年の続きです。
 
[] 前年即位した晋文公は亡命に従った者を賞してきました。ところが介之推は禄(褒賞)に関して語ることがなく、実際に禄を受けることもありませんでした。
史記・晋世家』に記述があります。
晋文公は亡命に従った者や功臣を賞しました。功がきいにはを封じ、さいにも位を与えます。しかし論功行賞が終わる前に周襄王に出奔し、晋にを告げました。晋はを発して周を援けることにしましたが、その間、亡命に従った介子推の褒賞が残されてしまいました
 
以下は『春秋左氏伝』からです。
介之推が言いました「献公の子は九人いたが、主君
(文公)だけが残った。恵公と懐公は親しい者がなく、国内外から捨てられた。この時、天が晋を滅ぼすつもりだったら、新しい国君が生まれることはなかったはずだ。晋の祭祀を主宰する者は、唯一残った主君の他にいなかった。これは天が定めたことである。しかし今、複数の者が自分の力によるものだと信じている。欺瞞ではないか。人の財を奪ったら盗といわれる。天の功を自分のものとしたらなおさらではないか。下の者は罪を義(道理)とし、上の者は姦人を賞し、上下が互いに欺瞞を隠しあっている。彼等と共にいることは難しい。」
これを聞いた介之推の母が言いました「あなたも禄を求めるべきではありませんか。このまま死んでしまったら、誰を怨むことができますか(自ら禄を求めようとしないのに、禄を得ることができずに死んだとしても誰かを怨むことができますか)。」
介之推が言いました「誤りと知ってそれを真似ることほど大きな罪はありません。また、怨言を述べた以上、その禄を得るわけにはいきません。」
母が言いました「禄を求めないとしても、あなたの考えを知らせたらどうですか。」
介之推が言いました「言とは身体を飾るものです。身を隠そうとしているのに、文を用いても意味はありません。文を用いるのは自ら顕を求める(目立とうとする)ことです。」
母が言いました「あなたがそのようにするのなら、私もそれに従って隠居しましょう。」
介之推母子は隠居して死にました。
文公は介之推を探しましたが見つけることができず、緜上(地名)の田を封じてこう言いました「これによって我が過ちを明らかにし、善人を表彰しよう。」

史記・晋世家』『説苑・復恩(巻第六)』等は介之推が隠居してから起きたことを書いています。『晋世家』の記述です。
介之推と母は隠居し、死ぬまで人に会うことがありませんでした。介之推の従者がそれを憐れみ、晋の宮門に文書を懸けました「に登ろうとし、五蛇がそれを援ける。は既にに登り、四蛇もそれぞれ(巣)に入る。一蛇だけ怨みを抱えて姿を消す龍欲上天,五蛇為輔。龍已升雲,四蛇各入其宇,一蛇怨,終不見。」
文公は宮外に出て文書を見ると、こう言いました「これは介子推のことだ。わしは王室のことを憂慮しており、彼の功績に報いていなかった。」
文公は人を送って介之推を招きましたが、既に姿を隠していました。介之推がどこに行ったかを調べた結果、緜上の山中に入ったという情報を得ます。そこで文公はその地を介之推に封じて「介山」と命名し、「わしの過ちを記録して善人を表彰しよう」と言いました。
 
『説苑』は『晋世家』とほぼ同じですが、従者の文書が異なります。以下、『説苑』からです「龍が空を飛び、居場所を失う。五蛇がそれに従い、天下を周遍する。龍が飢えて食がなく、一蛇が股を割く。龍はその淵に帰り、土壌を安定させる。四蛇は穴にはいって居場所を得るが、一蛇は穴がなく、原野で号泣する(有龍矯矯,頃失其所。五蛇従之,周遍天下。龍飢無食,一蛇割股。龍反其渊,安其壤土。四蛇入穴,皆有処所。一蛇無穴,号于中野)

『新序・節士』は介之推が文公に殺されたと書いています。
介之推が介山(緜上)に登ると、文公は人を送って招きました。しかし介之推は現れません。
文公は避寝(正殿から離れて生活すること。災難が起きた時等に国君が自分を責めるためにとった行動です)を三カ月続け、一年に渡って呼び続けました。(略)
それでも介之推を得ることができないため、文公は介山に火をつけました。介之推を下山させるためです。その結果、頑なに下山を拒んだ介之推は山中で焼死してしまいました。
 
[] 夏四月癸酉(十九日)、衛文公が在位二十五年で死に、子の鄭が即位しました。これを成公といいます。
 
[] 宋の蕩伯姫が魯に来て新婦を迎えました。
蕩伯姫は魯の出身で、宋の大夫・蕩氏に嫁いだようです。蕩氏は宋桓公の子・蕩の子孫です。伯姫は自分の子のために、魯に新婦を迎えに来たようです。
 
[] 『春秋』に「宋がその大夫を殺す」という記述がありますが、詳細は不明です。
 
[] 秋、秦と晋が鄀を攻めました。鄀は秦と楚の間にある小国で、都は商密です。『資治通鑑外紀』によると允姓の国です。秦が鄀を攻めたため、晋も協力して兵を出したようです。
 
楚の(字は子儀。楚の申公)と屈禦寇(子辺。楚の息公)が申と息の師を率いて商密を守りました。申と息はかつては国でしたが、楚に滅ぼされて県になりました。申公・息公は国君ではなく、県尹(県の長官)です。

秦軍は析(鄀の別邑)を通過し、湾曲する丹水に沿って進軍しました。楚の守備軍を避けての行軍です。商密に接近すると自軍の兵に析の捕虜の姿をさせて、既に析を占領したように見せました。夕方、商密の城下に迫ります。夕方を選んだのは偽の捕虜を見破られないためです。
夜、秦軍は城外で犠牲を殺して会盟の儀式を行いました。商密城内の人々は、子儀と子辺が率いる城外の楚軍が秦と盟を結んだと思い、恐れて言いました「秦は既に析を占領した。しかも戍人(楚の守備軍)が叛した。」
商密は秦に降りました。秦軍は申公・子儀と息公・子辺を捕えて兵を還しました。
 
楚の令尹・子玉が秦師を追撃しましたが、追いつけませんでした。
そこで楚軍は陳を包囲しました。
これ以前に頓子(頓は姫姓の国)が陳の攻撃を受けて楚に奔っていました。東周襄王十六年637年)に楚が陳を攻めて頓に城を築きましたが、築城後に頓子が楚に奔ったのか、それ以前に頓子が楚に亡命しており、頓子を帰らせるために城を築いたのかは分かりません。
陳を包囲した楚は頓子を頓国に入れました。
 
[] 衛が文公を埋葬しました。
 
[] 周襄王が晋文公に与えた地の一つに原邑がありました。原の人々は晋の統治に反対します。
冬、晋文公が原を包囲しました。将兵には三日間だけの食糧を持たせます。三日経っても攻略できなかったら兵を退くという意味です。
三日後、原が降伏しないため、文公は撤兵を命じました。その時、間諜が城内から戻って報告しました「原はあと一日か二日しかもちません。もうすぐ投降します!」
軍吏が「撤兵は待つべきです」と言いましたが、文公はこう言いました「信とは国の宝であり、民を守る根拠である。原を得て信を失ったら、何によって民を守ればいいのだ。失う物の方が多いだろう。」
晋軍が一舍(三十里)撤退すると、原の人々は晋に信義があると知って降伏しました。
 
文公が寺人・勃鞮に原の守備について問うと、勃鞮が答えました「かつて趙衰は壺に食糧を入れて主公に従い、途中、主公と異なる道を移動することもありましたが、道中で飢えても食糧を食べることがありませんでした。」
文公は趙衰に原の守備を任せることにしました。
原伯・貫は冀に遷され、趙衰が原大夫に、狐溱が温大夫になりました。
 
[十一] 衛が莒と魯の和平を調停しました。東周恵王十八年(前659年)に魯が莒を攻めてから、両国は敵対していました。
十二月癸亥(十二日)、魯公(釐公)と衛子(成公)、莒慶(莒の大夫)が洮(魯地)で会盟しました。衛文公時代の友好関係が確認され、莒との和平も成立しました。
 
[十二] 『竹書紀年』(古本・今本)はこの年、晋が荀(または「郇」)に城を築いたと書いています。

 

次回に続きます。