春秋時代63 東周襄王(二十三) 周内乱の終結 前635年(1)

今回は東周襄王十八年です。
 
襄王十八年 叔帯二年
635年 丙戍
 
[] 春正月、衛が邢を攻撃しました。
刑に仕えた礼氏の二人(礼至とその弟。前年参照)が正卿・国子に従って城壁を巡視した時、国子の不意を襲って突然抱きかかえ、城外に落として殺しました。
丙午(二十日)、衛文公が邢を滅ぼしました。
礼至の銘にはこう書かれました「わしは国子を抱きかかえて殺し、誰も止めることができなかった(余掖殺国子,莫余敢止)。」
 
[] 秦穆公が黄河沿岸に駐軍し、出奔した周襄王を迎え入れようとしました。
晋の狐偃が文公に言いました「民は主公に親しんでいますが、まだ義を知らないため和していません。主公は王を周都に入れて民に義を教えるべきです。主公が王を援けなければ秦が王を帰らせるでしょう。これでは周に仕える機会を失います。周に仕えることなく諸侯の支持を求めることができますか。諸侯の支持を得る方法は、勤王に勝るものはありません。勤王は諸侯の信を得ることができ、しかも大義があります。自分の身を修めることができず(自国の民に義を教えることができず)、王を尊奉することもできないようでは、人が帰心することはありません。文侯の業を継ぎ、武公の功を定め、国土を開いて国内を安定させるのは、今が好機です。主公は王のために力を尽くすべきです。」
 
以上は『国語・晋語四』と『春秋左氏伝僖公二十五年)』の記述を元にしました。史記・晋世家』では趙衰が文公に進言しています。
趙衰はこう言いました「覇を求めるのなら、王を京師に入れて周を尊ぶべきです。周と晋は同姓です。秦が先に王を京師に帰らせたら、我々が天下に号令する資格を失います。尊王は晋の財産になります。」
 
『春秋左氏伝』と『国語』に戻ります。
文公が卜偃に卜わせると、卜偃は「吉です。黄帝が阪泉で戦った兆が出ました」と言いました。黄帝は阪泉で炎帝を破って天下を取ったといわれています。
文公が言いました「わしには責任が重すぎる。」
卜偃が言いました「周礼は改められていません。今の王は古の帝にあたります。」
重耳は卜に出た黄帝が自分のことだと思って「責任が重すぎる」と言いました。これに対して卜偃は、「周は衰えたとはいえ、制度も典礼も変わっていないので、今の王が太古の帝にあたります」と言いました。つまり黄帝は周襄王を指し、弟の太叔・帯に勝利するという意味です。
文公が改めて筮で占わせると、『大有』の卦が『睽』の卦に変わりました(詳しい意味はわかりません)。卜偃が言いました「吉です。『公は天子のもてなしをうける(公用享于天子)』という卦です。戦いに勝って天子のもてなしを受ける、これほど大きな吉はありません。しかもこの卦は、天が沢になって日の光を受け止め、天子が自ら降って公を迎え入れる(天為沢以当日,天子降心以逆公)という意味です。『大有(天下を有する天子)』は『睽』になってからまた『大有』に戻るので、天子も還ることができます。」
文公は秦軍に東下を止めるよう要請し、同時に草中の戎と麗土の狄(戎・狄あわせて驪戎)に財物を贈って東方に通じる道を開かせました
史記・秦本紀』は秦穆公が兵を出して晋文公を援けたと書いていますが、恐らく誤りです。
 
三月甲辰(十九日)、晋軍が陽樊に駐軍しました。右師(右軍)が温(太叔・帯)を包囲し、左師(左軍)が汜に入って襄王と合流します。
 
夏四月丁巳(初三日)、周襄王が洛邑の王城に還りました。太叔・帯は温で捕えられ、隰城で殺されました。
 
戊午(初四日)、晋文公が周襄王に朝見しました。『史記・周本紀』によると、この時、「襄王が文公に珪(玉器)・鬯(酒)・弓矢を下賜して伯(諸侯の長。覇者)に任命した」と書かれています。しかしこれは城濮の戦いの後(東周襄王二十一年、前632年)の事ではないかと思われます。
襄王は宴を開いて文公をもてなしまました。
 
襄王が陽樊・温・原・欑茅等の地を文公に与えようとしましたが、文公はそれを辞退して隧の許可を求めました。「隧」とは地下に陵墓を造ることで、「隧葬」といいます。当時の葬礼では、天子の棺は「隧道(地下)」に埋葬され、諸侯は「羨道(一部が地上に出ている陵墓)」に埋葬されることになっていました。晋文公は死後の葬礼を天子と同等にすることを請いました。
しかし襄王は拒否して言いました「昔、先王が天下を擁した時、王都の方千里を甸服と定めたが、これは上帝や山川百神の祀りに使う祭品を供給させ、百姓(百官)兆民(民衆)が必要とする財を蓄えて不測の禍患に備えるためだ。その他の地は全て公侯伯子男(諸侯)に分配し公爵の地は方五百里、侯爵は四百里、伯爵は三百里、子爵は二百里、男爵は百里、諸侯を安定させることで天地が定めた尊卑の義に則らせ、相互の侵犯をなくして災害を防いだ。このようであるから甸服は王室の祭祀や臣民のためにあり、その他の地は全て諸侯に与えたから)先王に私利はなかった。内(宮中の女官)は九御九嬪)に過ぎず、外官は九品(九卿)に過ぎず、嬪も卿も神祇の祭祀を行う人数がいれば充分だった。生前、耳目心腹を満足させるために百度(あらゆる慣習や制度、きまり)を破ったことはない。ただ、死生の服飾・器物の采章(彩色の模様・装飾)だけが貴賎に基づいて違いをもっただけだ。それ以外で王と他の者に異なることがあるか。今、天が周室に禍(叔帯の乱)を降し、余は一人で先王の府藏(財産)を守っているだけだ。余が不明なため、叔父(同姓の諸侯。ここでは晋文公)を煩わせることになってしまったが、先王の大物(制度)を変えることで私徳(個人が受けた恩恵)に報いたら、叔父も天下の憎しみを買うことになるだろう。大物は余一人のものではない。余一人のものであったら、それを惜しむことはない。先民はこう言った『佩玉を改めたら行いを改める(「改玉改行」装飾に用いる玉は身分を示すものであり、玉が変われば身分も変わるので行いも改められる。逆に身分が変わらないのなら越権してはならないという意味です)。』隧は王の制度であり、二王が併存することは許されない。叔父がもしも大徳を高揚して更姓(易姓。姓を変えること。晋文公が天子の姓と同じ姫姓を棄てて天子になるという意味)し、制度を改めて天下を治め、百姓を鎮撫することができたら、余は一人で辺境の地に放逐されたとしても文句は言わない。しかしもしも姫姓のままでいるのなら(同姓の周王室を助けようと思うのなら)、叔父はやはり公侯の地位におり、先王に与えられた職責を守らなければならない。よって、大物を改めることはできない。叔父が明徳を明らかにすれば、物儀礼・特権)は自ら至るであろう。余が私情によって先王の大章(規則)を変えたら、天下に対して慙愧しなければならなくなる。それでは先王や百姓に会わせる顔がなく、政令も行き届かなくなるだろう。このような心配が必要なければ、叔父が自分の土地で行う隧葬に、余が干渉することはない。」
文公はあきらめました。
 
襄王は文公に南陽の陽樊・温・原・州・陘・絺・組・攢茅の地を与えました。
この後、晋は南陽黄河の北・太行山の南)に領土を拡大していきます。
 
[] 周から晋に与えられた陽樊は本来、陽という邑ですが、西周・宣王時代に樊仲山父が封じられたため、陽樊とよぶようになりました。
陽樊の人々が晋の統治に反対したため、晋文公が城を包囲しました。すると陽樊の守臣・倉葛が叫んで言いました「王は晋君が徳を施したから陽樊によって労った。しかし陽樊は王の徳を感じており、晋に帰順しなかった。我々は晋君がどのような徳を施して懐柔し、離反を防ぐつもりか見ていたが、今、晋君は兵を動員して我が宗廟を破壊し、我が民を滅ぼそうとしている。王を助けたのは周礼に順じたことであるが、今、我々を滅ぼすのは礼に背くことではないか。徳は中国(中原)を懐柔し、刑は四夷に威を示すためにある。三軍が討伐する相手は、蛮・夷・戎・狄の中でも驕慢不敬な者達であるはずだ。晋が我々に武力を用いるのなら、我々が晋に服すことはない。弱小な陽樊は晋君の政令に慣れないため、その命を受け入れていなかった。晋君が恩恵をもたらすのなら、晋は官人を派遣するだけで充分であり、我々が晋君の命に逆らうことはなく、師(軍)を煩わせる必要もない。今回の晋君の武は義に背いており、その威信は汚され、軽蔑されることになるだろう。『武は自慢してはならず、文は隠してはならない。武を誇ったら威を失い、文を隠したら光を失う(武不可覿,文不可匿。覿武無烈,匿文不昭)』という。陽は甸服としての責任を失い、しかも晋に武を誇示された。これは憂いるべきことである。そうでなければ晋に服さない理由はない。そもそも、陽に裔民(放逐された凶悪な民)はいない。陽には夏・商の子孫がおり、その典籍が残され、周室の師旅(兵と民)を擁している。古くから樊仲仲山甫)の家臣が守ってきた地であり、たとえ官員・守臣でなくとも、皆、天子の父兄親戚である。なぜそれを武によって虐げようというのだ。晋君は王室を安定させたのに王室の姻族を滅ぼそうとしている。これで民が帰順すると思うか。君はよく考えるべきだ。
文公は「これは君子の言だ」と言って陽樊の民が他の地に遷ることを許しました。



次回に続きます。