春秋時代72 東周襄王(三十二) 晋秦の不和 前630年(2)

今回は東周襄王二十三年の続きです。
 
[] 鄭の大夫・佚之狐が鄭文公に言いました「国の危機です。燭之武(大夫)を送って秦君に会わせましょう。秦は必ず兵を還します。」
鄭文公はこれに従い、燭之武を召しました。しかし燭之武は辞退して言いました「臣が壮年の頃でも他の者に及びませんでした。年老いた今では、役に立ちません。」
文公が言いました「汝を早く用いることができず、危急の今になって汝を求めたのは寡人の誤りだ。しかし鄭が滅んだら、汝にとっても利はないであろう。」
燭之武は同意しました。
 
夜、燭之武は縄で吊られて城壁を降り、秦穆公に会って言いました「秦と晋に包囲された今、鄭は滅ぼされることを知っています。もし鄭を滅ぼして貴君の利になるのなら、貴君は戦いを続けるべきでしょう。しかし隣国を越えて遠くを攻める困難は貴君も知っていることであり、鄭を滅ぼしても隣国(晋)が大きくなるだけです。隣国を厚くしたら貴国が薄くなります。晋の強盛は秦の憂いとなるでしょう。鄭攻略を放棄して鄭を東道の主とし、東方を往来する使者の物資を供給させれば、貴君にとっても害はないはずです。そもそも貴君は晋君(恐らく晋文公ではなく恵公を指します)に恩恵を施し、晋君は焦と瑕の地を貴君に譲ることを約束したのに、朝に黄河を渡って夕方には版を設けました(築城して秦の東進に備えました)。晋は満足することがありません。東の鄭に領土を広げたら、次は西の土地を求めるでしょう。その時、秦を侵さずどこに領土を求めるというのでしょうか。秦が損をしたら晋を利するということを貴君はよく考えるべきです。」
秦穆公は納得して鄭と盟を結び、杞子、逢孫、揚孫に鄭を守らせて兵を還しました。
 
晋の狐偃が秦軍を追撃しようとしましたが、文公が言いました「いけない。彼等の力がなければ我々がこの地位を得ることもなかった。人の力に頼りながらそれを害するのは不仁だ。友好関係にある者を自ら失うのは不知だ。整(安定・友好)を乱(敵対)に変えるのは不武だ。我々も兵を還そう。」
こうして晋軍も撤兵しました。
 
鄭文公には三人の夫人がおり、複数の公子に恵まれましたが、後継者をめぐる問題を招きました(『史記・鄭世家』には「鄭文公には三夫人と寵子五人がいたが、皆、罪を犯して早死にした」とあります。鄭文公の子に関しては東周定王元年・606年にも書きます太子・華が東周襄王九年644年)に、その弟・子臧が襄王十七年636年)に殺されたことは既に書いたとおりです。文公は残った公子達も放逐しました。その中の一人、公子・蘭は晋に出奔し、晋文公に仕えました。公子・蘭の母は三夫人の一人ではなく、賤妾の燕姞です東周襄王四年・649年参照)
晋が鄭に兵を向けた時、公子・蘭も晋文公に従いましたが、城の包囲に参加するのは辞退しました。晋文公はそれを許し、晋東部の国境で待機させました。
 
晋文公は公子・蘭の賢才を気に入っていました。そこで、文公は鄭に対して公子・蘭を太子に立てることを要求しました。

鄭の石癸(字は甲父)が言いました「姫姓と姞姓は一緒になるべきであり、その子孫は必ず繁栄するという。姞は吉人の意味であり、その先祖は后稷の元妃(正妻)だ。公子・蘭の母は姞姓である。晋の要求は天が公子・蘭に道を開くために降したものではないか。彼を国君にしたら子孫が繁栄するだろう。先に彼を迎え入れれば寵を得ることもできる。また、主公の夫人が産んだ子は誰も残っていない(実際は蘇から嫁いだ夫人の子である公子・瑕が生きていますが、鄭文公に嫌われていました)庶子の中で公子・蘭に勝る者もいない。今、我が国は危機に面し、晋は公子・蘭を帰国させようとしている。これ以上の講和の条件は無いだろう。
石癸は侯宣多、孔将鉏と共に公子・蘭を迎え入れて大宮(鄭の祖廟)で誓いを行い、鄭の太子に立てました。
晋は鄭と講和しました。
 
『古本竹書紀年』に「斉師が鄭の太子・歯を駆逐し、張城・南鄭に奔らせる」という記述があり、『今本竹書紀年』はこれを本年(東周襄王二十二年、630年)のこととしています。
原文は「斉師逐鄭太子歯奔張城南鄭」です。この一文の解釈は主に二種類あります。
一つ目は「晋師送鄭太子蘭于張城帰鄭」の誤りで、本年、晋文公が鄭を包囲して公子・藍を鄭に入れた事件を指すという解釈です。
もう一つは、「太子・歯」を「太子・華」の誤りとする説です。東周恵王二十四年653年)鄭が斉に和を請い、鄭文公は太子・華を寧母の会に参加させました。この時、斉桓公が太子・華の姦計(自分の地位を確立するために諸侯の力を借りて鄭の国力を弱めること)を嫌って放逐したため、華は国に帰ることができず晋の張城に奔り、後に秦の南鄭に奔ったというのが二つ目の解釈です。但し、太子・華は東周襄王九年644年)に殺されたので、張城や南鄭に奔ったとしたら十年以上前のことになります。
 
[] 介国が䔥(宋邑)を侵しました。
 
[] 冬、周襄王が宰周公(周公・閲)を魯に送って聘問させました。
魯釐公が昌(菖蒲を調理した物)(炒った稲)・黒(炒った黍)・形塩(虎の形をした塩)でもてなそうとしましたが、周公・閲は辞退して言いました「国君とは、文によって徳を明らかにし、武によってを畏れさせるものです。だからふさわしい物を備えて宴を開き、その徳を象徴するのです。五味(昌を薦め、嘉穀(素晴らしい穀物。白・黒)を準備し、虎形の塩を使うのは、その功績を象徴するためです。私には荷が重いことです。」
 
[] 魯の公子・遂(東門・襄仲)が周を聘問するため京師に入りました。
その後、初めて晋文公を聘問しました。
 
 
 
次回に続きます。