春秋時代75 東周襄王(三十五) 殽の戦い 前627年(1)

今回は東周襄王二十六年です。二回に分けます。
 
襄王二十六年
627 甲午
 
[] 春、秦軍が東に向かい、晋地を通ってから周王城の北門を通過しました。御者だけが戦車に乗り、車左と車右は冑を脱いで車から降ります。将兵は周王に拝礼してから行軍しました。しかし三百乗の戦車は一度車から降りた士兵が飛び乗って行軍を続けました。
まだ幼い王孫満がそれを見て襄王に言いました「秦師は敗れるでしょう。」
襄王がその理由を聞くと、王孫満はこう言いました「秦師は軽率かつ驕慢です(軽率は王の前で戦車に飛び乗って行軍したこと、無礼は軍装を解かず、冑だけ脱いだことを指します)。軽率なら謀が少なく、驕慢なら礼がなくなります。礼がなければ規律を失い、謀がなければ自ら険に陥ります。険(殽山を暗示しています)に陥っても規律がないようでは、負けないはずがありません。もしも秦師が負けないようなら、天道が廃れたことになります。」
 
秦軍が滑国(晋辺境の邑)に至った時、周に向かっていた鄭の賈人(商人)・弦高と遭遇しました。弦高はまず乗韋(牛皮四枚)を秦軍に贈り(礼物を贈る時は先に簡単な物を贈ることが礼とされました)、その後、牛十二頭を秦軍に譲って言いました「寡君(自国の君主。鄭穆公)は貴国の兵が敝邑を通ると聞き、私に命じてあなたの従者(秦軍)を慰労させました。敝邑は豊かではないので、従者が駐留するとしても一日の物資しか準備することができず、帰還するとしても一夕の護衛しか設けることができません。」
以上、弦高の言は『春秋左氏伝僖公三十三年)』からです。『史記・秦本紀』ではこう言っています。
「大国が鄭を誅すると聞いたので、鄭君は慎んで守りを固め、臣に牛十二頭を連れて軍士を労わせました。」
 
弦高は秦軍を慰労するのと同時に、鄭都に使者を送って秦軍接近を報告しました。
 
鄭穆公はすぐ人を送って客館を調べさせました。秦の杞子等は賓客として遇されており、客館に住んでいます。杞子等は武器を整え馬に飼料を与えて出発する準備をしていました。
穆公は皇武子を送って杞子等に伝えました「大夫達が敝邑に来て久しく、食糧も尽きました。大夫達が帰国するのなら、秦に具囿があるように鄭にも原圃(囿も圃も遊園)があるので、そこで麋鹿を獲って帰国時の食糧にしては如何でしょう。」
杞子等は陰謀が発覚したと知りました。杞子は東の斉に奔り、逢孫と揚孫は宋に奔ります。西の秦に帰らず東に向かったのは、鄭の西に晋があるからです。
 
孟明が言いました「鄭を急襲する計画だったが、鄭には既に備えがある。成功するはずがない。攻めても勝つことなく、包囲しても継続できないのなら、兵を還した方がいい。」
秦軍は滑国を滅ぼして還りました。
 
淮南子・人間訓』には弦高に関する記述があります。
鄭穆公が弦高に賞賜を与えようとしましたが、弦高はこう言いました「相手を騙して賞を得たら、鄭国の信が廃れてしまいます。一国が信を失ったら、俗(風紀)を損なうことになります。一人を賞して国俗を損なうようなことは、仁者はしないものです。不信によって厚賞を受けるようなことは、義者はしないものです。」
弦高は賞賜を受け取らず、一族を率いて東夷に移り、帰ることはありませんでした。
 
[] 斉の国荘子(国帰父)が魯に来聘しました。国荘子は魯の郊外に着いた時から帰国するまで礼に則って行動し、過ちがありませんでした。
臧文仲が魯釐公に言いました「国子が政治を行えば斉には礼があります。主君は斉に朝すべきです。礼がある国に服すのは社稷の衛(守り)になるといいます。」
 
[] 晋の原軫が襄公に言いました「秦は蹇叔に逆らい、貪婪によって民を動かしました。天が我が国に好機を与えたのです。天が与えたものを失ってはならず、敵を放つこともなりません。敵を放ったら禍患を生み、天に逆らったら不祥を招きます。秦師を討つべきです。」
欒枝が言いました「秦の恩に報いていないのにその師を討つことが、死君(文公)のためになるでしょうか。」
先軫が言いました「秦は我が国の喪を憐れまず、我が国と同姓の国(滑国)を討ちました。秦は無礼であり、恩恵などありません。敵を一日放ったら数世の患憂となります。子孫のことを謀るのは死君のためといえるでしょう。」
襄公は「秦はわしを孤(孤児。父が死んだばかりであること)とみなして侮り、喪中につけこんで我が滑を滅ぼした」という理由で出征の命を発し、姜戎(晋の北に住む姜氏の戎)の兵を動員しました。襄公も衰絰(喪服)を黒くして兵を指揮します。喪服は本来、白衣(素服)ですが、戎服(軍服)は黒いため、黒に染められました。
梁弘が襄公の戎車を御し、萊駒が車右になりました。
 
夏四月辛巳(十三日)、晋軍が帰国する秦軍を殽(崤)で破りました。秦軍は全滅し、百里孟明視、西乞術、白乙丙は捕虜になります。
癸巳(二十五日)、帰還した襄公は黒い喪服を着て文公を埋葬しました。晋はこの時から黒が喪服の色になりました。

『中国歴代戦争史』を元に殽の戦いの地図を作りました。
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文嬴(晋文公の夫人。襄公の嫡母。襄公の実母は偪姞といいます)が捕虜になった三帥の命を助けるため、襄公に言いました「彼等は晋秦二君の関係を悪化させました。寡君(秦穆公)三人を骨髓まで憎んでいるはずです。彼等を得たら必ず殺すでしょう。なぜあなたが彼等を処罰しなければならないのですか。秦に帰して殺させ、寡君の志を満足させた方がいいでしょう。」
襄公はこれに同意しました。
暫くして先軫が襄公に囚人の様子を聞くと、襄公はこう言いました「夫人が請うので釈放した。」
先軫が怒って言いました「武夫が力によって戦場で敵を捕えたというのに、婦人の数語によって国内でそれを逃がしてしまうとは、戦果を失い寇讎(敵)を助長することになります。晋が滅ぶ日は近いでしょう。」
先軫は襄公に向かって唾を吐きました。
後悔した襄公が陽処父に追撃させましたが、孟明視等は既に黄河を渡る舟中にいました。陽処父は左驂(馬車の左の馬)を解き、襄公の命と称して孟明に贈ろうとしました。しかし孟明は舟を返さず、稽首してこう言いました「晋君の恩恵によって囚われの臣が祭祀に使われることはなく(犠牲として殺されることなく)、秦に帰って殺されることになりました。寡君(秦穆公)が臣等を殺したら、臣等は死んでも名を朽ちさせることはなく、またもしも晋君の恩恵によって死から逃れることができるなら、三年後、晋君の恩賜を感謝しに来ます(報復に来ます)。」
 
秦穆公は素服(凶服。喪服)を着て郊外で孟明等を出迎え、帰還した将兵に向かって泣いて言いました「孤(私)は蹇叔に逆らって汝等を辱めてしまった。全て孤の罪である。三子に罪はない。三子は恥を雪ぐために尽力してくれ。
また、孟明の軍権を解かず、こう言いました「敗戦は孤の過失だ。大夫に罪はない。一回の敗戦が大徳(能力。功績)を覆うことはない。」
 
尚書』には『秦誓』という文書が残されています。諫言を聞かず大敗を招いた秦穆公が自分を戒めるために誓った言葉です。前半部分を訳します。
「我が戦士たちよ、わしは汝等に誓おう。古人はこう言った『人が自分の思い通りに行動したら、多くの場合は失敗に終わる。人に意見するのは易しいが、人の意見を聞き入れるのは難しいことだ。人の意見を聞き入れて水が流れるように(自然に)改めるのは、最も困難なことだ。』私は(敗戦のことで)心が苦しいが、日も月も留まることなく流れていき、取り戻すことはできない。古の謀人(古代の義を大切にする智者。ここでは蹇叔のような人物を指します)は諫言して用いられなくても恐れることなく主と衝突した。逆に今の謀人(若い世代の智者。杞子等を指します)は、衝突することなく親しく接し、わしはその言を用いていた(蹇叔のような忠賢の厳しい諫言を用いず、杞子等のように目先しか見ることができない者を信用した、という意味です)。このようではいけない。黄髪(老人。古義に通じた賢人)に多くの意見を求めなければ、後悔を減らすことはできないだろう。」
こうして穆公は諫言を聞き入れることを誓いました。
 
 
 
次回に続きます。