春秋時代78 東周襄王(三十八) 彭衙の戦い 前625年(1)

今回は東周襄王二十八年です。二回に分けます。
 
襄王二十八年
625年 丙申
 
[] 秦の孟明視が軍を率いて晋を攻めました。殽の役(東周襄王二十六年、前627年)の報復のためです。
春二月、晋襄公が兵を率いて防ぎました。先且居が中軍を将に、趙衰が佐になります。王官無地(王官は氏。恐らく食邑名)が襄公の車を御し、狐鞫居(続簡伯。続は食邑名。簡伯は字)が車右になりました。
 
甲子(初七日)、晋と秦が彭衙(秦邑)で戦いました。
 
殽の戦いでは梁弘が晋襄公の車を御し、萊駒が車右を務めました。戦いの翌日、晋襄公は秦の捕虜を縛り、萊駒を送って戈で斬らせました。しかし捕虜が大喝すると、萊駒は驚いて戈を落とします。それを見た狼戈をとって捕虜を斬り、萊駒を連れて襄公の車を追いました。襄公は狼を車右に任命します。
しかし箕の役(東周襄王二十六年、前627年。白狄との戦い)では中軍の将・先軫がの職を解いて続簡伯を車右にしました。
が怒るとその友人が言いました「あなたは死ぬべきではないか。」
が言いました「私は死に場所を得ていない。」
友人が言いました「それならば私が汝と難をなそう(先軫を殺そう)。」
が言いました「『周志(逸周書・大匡篇)』にはこうある『勇にして上を害すようなら、死後、明堂(先祖を祭る場所)に登ることができない(勇則害上,不登于明堂)。』死んでも不義ならば勇とはいえない。国のために死ぬことを勇というのだ。私は勇によって車右を求めた。(先軫を殺して)無勇とされたら、車右の職を解かれたことが正当だとみなされてしまう。上の者(先軫)が私を理解していなかったというが、私を廃したことが正当だとみなされたら、彼は私を理解していたことになる。汝は暫く待て。」
彭衙の戦いが始まると狼は自分の部衆を率いて秦軍に猛攻を加え、戦死しました。しかし狼の突撃に晋軍が続き、大勝をもたらしました。
 
彭衙の戦い後、晋人は「これが『拝賜の師(恩賜を拝謝する軍)』だ」と言って秦軍を嘲笑しました。
殽の戦いで敗れた孟明視が「三年後、晋君の恩賜を感謝に来る(報復に来る)」と言ったことを風刺しています。
 
秦穆公は敗戦した孟明の職を解かず、今まで通り重用しました。孟明は更に民を重視して国政を修めました。
晋の趙成子(趙衰)が諸大夫に言いました「次回、秦師が来た時は、道を開くべきだ。恐懼して徳を増した相手には抵抗できない。『詩詩経・大雅・文王)』にもこうある『汝の祖先を想い、その徳を修めて明らかにする(毋念爾祖,聿脩厥徳)。』孟明はこの詩を想い、徳を大事にして怠らない。敵対するのは難しい。」

史記・晋世家』にはの敗戦に報いるため、孟明を送って晋を攻め、晋の(地名)を取って兵を還したとありますが、『春秋左氏伝』には見られません。
 
[] 丁丑(二十日)、魯が釐公(僖公)の神主(位牌)を作りました。昨年、釐公を埋葬してから十カ月も経っています。これは礼に外れたことでした。
 
[] 魯文公が晋を朝見しなかったため、晋が魯を攻撃しました。魯文公が晋に向かいます。
晋は大夫・陽処父を送って魯と盟を結ばせました。魯の国君が晋に行ったのに、晋が大夫を送ったのは、魯を辱めるためです。
会盟の日は、『春秋』経文では三月乙巳(十九日)、『春秋左氏伝』では夏四月己巳(十三日)となっています。どちらかが誤りのようです。
 
[] 夏六月、魯の公孫敖が垂隴(または「垂斂」。鄭地)で宋公(成公)、陳侯(共公)、鄭伯(穆公)および晋の司空・士縠(士穀)と盟しました。
陳共公が衛のために晋との講和を求め(前年参照)、晋の歓心を得るために衛の孔達を捕えました
 
[] 昨年十二月から秋七月まで魯で雨が降りませんでしたが、被害はありませんでした。
 
[] 魯の大夫・夏父弗忌(または「夏父不忌」「夏父弗綦」)が宗伯(祭祀を掌る官)となり、釐公を尊重してこう言いました「わしは新鬼(新霊。釐公)が大きくなり、旧鬼(閔公)が小さくなるのを見た。大が先にあり、小が後に置かれるのは順(順序・秩序)である。聖賢を上にするのは明明智である。明と順は礼である。」
夏父弗忌は祭祀における釐公の地位を閔公の上に置くことにしました。
閔公は釐公の兄です。夏父弗忌の決定に対して宗廟の官員が言いました「これは昭穆に反することです。」
昭穆というのは宗廟の序列を意味します。先祖の神主(位牌)を納める宗廟は、中央に始祖(太廟)が置かれ、その前に歴代の先祖の廟が向き合って並べられました。始祖から見て左に並んだ廟を「昭」、右に並んだ廟を「穆」といいます。最も単純な配置は、まず始祖が中心におり、二世が「昭」として左に、三世が「穆」として右に置かれます。四世は再び「昭」となって左、五世は「穆」となって右になります。同じように六世は「昭」、七世は「穆」です。
但し宗廟制度では、天子は七廟、諸侯は五廟、大夫は三廟等と廟の数が決まっていました。世代が増えれば廟が足りなくなります。そこで通常は特に功績が大きい先祖や自分から近い先祖が廟に入れられるようになりました。
「昭」と「穆」は世代間の上下関係を示す重要な意味がありました。同列の「昭」と「穆」では「昭」が上になります。
魯文公を例にとると、文公の前の魯君は閔公と釐公です。釐公は閔公が国君だった時、臣下として仕え、しかも閔公の弟だったので、宗廟制度に則ると閔公が上(昭)、釐公が下(穆)になるはずでした。しかし夏父弗忌は釐公の功績を称え、また釐公の子である文公の歓心を得るために、釐公を「昭」に、閔公を「穆」にするように主張しました。
 
官員の反対に対して夏父弗忌が言いました「わしは宗伯として明徳を昭とし、それに劣る者を穆とするのだ。昭穆に固定された順序などない。」
官員が言いました「宗廟に昭穆があるのは世代の長幼に基づいて並べることで親疏の関係を整えるためです。祀とは孝道を明らかにするためにあります。人々が皇祖(太祖)を敬うのは、昭孝(孝道を明らかにすること)の極みです。工史楽師・太史)が世代の前後序列を記録し、宗祝(宗伯・太祝)が昭穆を記録するのは、それぞれの関係が礼を越えることを恐れるからです。今、明徳を先において祖(前の代)を後ろにしようとしていますが、相応しくありません。玄王商王朝の祖・契)主癸の功績は湯商王朝初代王)に及ばず、稷周王朝の祖)や王季の功績は文王や武王に及びませんでしたが、商も周も蒸(冬の祭祀)で湯や文王・武王を前に置くことはありませんでした。これは礼を越えてはならないからです。魯は商・周に及ばないのに、常規を変えようとしています。相応しくありません。」
諫言は聞き入れられませんでした。
 
八月丁卯(十三日)、大廟で釐公の吉禘を行いました。
 
展禽が言いました「夏父弗忌は禍に襲われるだろう。宗有司(宗廟の官員)の言は順(正道)である。僖公(釐公)は明徳というには及ばない。順に反するのは不祥だ。逆(礼に外れたこと)によって民を訓導するのも不祥だ。神の班(秩序)を変えるのも不祥だ。明徳ではない神主を上に置くことも不祥だ。鬼道に反することが二つあり、人道に反することも二つある。禍が起きないはずがない。」
侍者が言いました「禍が起きるとしたら、それは刑戮に遭うのでしょうか、それとも疫病によって夭折するのでしょうか?」
展禽が言いました「それはわからない。しかしたとえ血気が強固で老寿を得たとしても、死んでから禍が訪れるはずだ。」
夏父弗忌の死後、埋葬しようとした棺から突然火が出て煙が天に達したといわれています。
 
孔子も後にこう言いました「臧文仲は三つの不仁と三つの不知があった。」
不仁は展禽の地位が低いままだったこと、六関を設けて税をとったこと、妾に蓆を織って売らせ、民と利を競ったことです。三つの不知は虚器を設けたこと、祭祀の秩序が逆になるのを許したこと、爰居(海鳥)を祭ったことです。
三つの不知のうち、虚器というのは、祭祀で用いる大亀や、天子の廟のような豪華な装飾です。臧文仲は自分の立場をわきまえず、祭祀用の亀を飼ったり、贅沢な住居に住んでいたようです。
祭祀の秩序を逆にしたというのは釐公の吉禘を指します。執政を行う臧文仲は祭祀の乱れを許しました。

爰居に関しては次回書きます。