春秋時代86 東周頃王(二) 河曲の戦い 前616~615年

今回は東周頃王三年と四年です。
 
頃王三年
616年 乙巳
 
[] 春、楚穆王が麇を討伐しました。前年、厥貉の会で逃走したためです。
楚の成大心が防渚(麇地)で麇軍を破り、楚の潘崇も麇を攻めて錫穴に至りました。
 
[] 夏、魯の叔彭生(叔仲恵伯)が承筐(または「承匡」。宋地)で晋の郤缺と会いました。楚に帰順する諸侯(陳・鄭・宋)についての対応を図るためです。
 
[] 秋、曹文公が魯に来朝しました。前年は曹文公の元年です。即位のあいさつに来たようですが、時間が経ちすぎているようです。
 
[] 魯の公子・遂(襄仲)が宋を聘問しました。
公子・遂は司城・蕩意諸(東周襄王三十四年、前619年に宋から魯に亡命しました)の弁明を行い、宋は蕩意諸の帰国を許しました。
同時に公子・遂は楚軍による戦い(前年)で宋に被害がなかったことを祝福しました。
 
魯は夏に晋と会し、秋には楚の同盟国・宋を祝賀しました。晋・楚両大国の間で中小国は複雑な外交を強いられていました。
 
[] 長狄族(狄には赤狄、白狄、長狄の三種類がいました。「狄」は「翟」とも書きます)(国名。防風氏の子孫の国といわれていますが斉を侵しました。その後、魯を攻撃します。
 
魯文公が叔孫得臣に迎撃させることを卜うと「吉」と出ました。そこで侯叔夏が荘叔(叔孫得臣)の御者に、緜房甥が車右に、富父終甥が駟乗に任命されます。古代の戦車は三人乗りですが、車右の補佐として四人乗ることもありました。四人目を駟乗といいます。
 
冬十月甲午(初三日)、叔孫得臣が鹹(魯地)で狄軍を破って長狄僑如(または「喬如」)を捕えました。『春秋左氏伝(文公十一年)』には富父終甥が戈で長狄僑如の首を突いて殺したと書かれていますが、『春秋穀梁伝(文公十一年)』は弓が得意な叔孫得臣が射殺して首を斬ったとしています。
僑如の首は子駒の門に埋められました。子駒の門は魯の外郭(外城)にある三つの北門のうち、西側に位置する門です。
叔孫得臣は長狄僑如の他に虺と豹も捕えました。
叔孫得臣は戦勝を記念して「僑如」「虺」「豹」を三人の子の名にしました。このうち叔孫僑如は後に得臣を継ぎ、宣伯とよばれます。
 
『春秋左氏伝文公十一年)』はここで長狄の滅亡に関して記述しています。長狄の人々は屈強で、しばしば中原に侵攻していました。
約百五十年前の宋武公の時代、鄋瞒が宋を攻撃したため、司徒・皇父充石(皇父は字、充石が名。宋戴公の子。武公の兄弟)が兵を率いて抵抗しました。耏班が御者に、公子・谷甥が車右に、司寇・牛父が駟乗になります。
宋軍は長丘で狄人を破り、長狄縁斯を捕えましたが、皇父、谷甥、牛父が戦死してしまいました。
武公は生き残った耏班を賞して城門で取る税を徴集する権利を与えました。この城門は耏門とよばれます(東周平王九年762参照。史記』の『宋微子世家』『十二諸侯年表』を見ると、宋昭公四年・東周頃王三年・616年のこととしていますが、宋武公時代の誤りです
 
本年、長狄僑如が魯に敗れて殺されました。
斉恵公二年(東周匡王六年、前607年)には瞞が斉を攻撃しますが、斉の大夫・王子成父が長狄僑如の弟・栄如を捕えて殺し、その首を周首(斉邑)の北門に埋めます。この時、衛も末弟の簡如を捕えました。
また更に後に、晋が潞を滅ぼし(東周定王十三年、前594年)、長狄僑如の別の弟・焚如(または「棼如」)も捕えられました。
こうして瞞は滅亡しました。
 
 
 
頃王四年
615年 丙午
 
[] 郕国の太子・朱儒が安逸な生活を求めて夫鍾(郕の邑)に住みました。郕都から出た太子から国人の心が離れていきました。
 
春正月、郕伯が死にました。郕人は太子を避けて別の者を国君に立てます。
太子・朱儒は夫鍾の地と郕の宝物を魯に譲って亡命しました。
魯文公は朱儒を諸侯として迎え入れます。
実際には諸侯ではないのに諸侯の礼を用いたことは、非礼とされました。
 
[] 杞桓公が魯に来朝しました。魯文公即位後初めての朝見です。
桓公叔姫桓公夫人。魯女)との離婚を求め、魯文公は許可しました。
 
二月庚子(十一日)、杞桓公と離婚した子叔姫が死にました。本来は国名を頭につけて「杞叔姫」と書くはずですが、離縁したため「杞」ではなく「子」がつけられます。「子」は既に結婚したことを表します。
 
[] 楚の令尹・大孫伯(成大心)が死に、成嘉(子玉の子、成大心の弟)が令尹になりました。
 
この頃、群舒(偃姓で舒を国名につける舒庸、舒蓼、舒鳩等の国)が楚に叛しました。
 
夏、子孔(成嘉の字)が舒子(舒の国君)・平と宗子(宗の国君)を捕え、巣(群舒の地)を包囲しました。
 
[] 秋、滕昭公が魯に来朝しました。春に来た杞桓公と同じく、魯文公即位後初の朝見です。
 
[] 秦康公が西乞術を魯に送って聘問し、晋討伐について話しました。西乞術が礼物の玉を贈ろうとしましたが、魯の襄仲が断って言いました「秦君は先君との誼を忘れることなく、魯国に照臨して社稷を鎮撫されました。このような大器を贈られましても、寡君(魯君)が受け取ることはできません。」
西乞術が言いました「微薄な器物です。辞するには及びません。」
しかし襄仲は三回辞退しました。
西乞術が言いました「寡君(秦康公)は周公(旦)・魯公(伯禽)の福によって貴国につかえたいと思っています。下臣(西乞術)を派遣し、先君から伝わる微薄の敝器(粗末な器物)を瑞節にして友好を約束したいのです。これは寡君の命を示すものであり、二国の友好の象徴でもあります。だから敢えてお贈りするのです。」
襄仲は「このような君子がいなければ国を治めることはできないだろう。秦は辺境の劣った国などではない」と言って西乞術を厚くもてなしました。
 
[] 秦が令狐の役(東周襄王三十三年、前620年)の報復のため、晋を攻撃しました。
冬、秦康公が兵を率いて羈馬を占領します。
晋も兵を出して迎え討ちました。正卿の趙盾(趙宣子)が中軍の将に、荀林父が佐に、郤缺が上軍の将に、臾駢が佐に、欒盾(欒枝の子)が下軍の将に、胥甲(胥臣の子)が佐になり、范無恤が趙盾の戎車を御します。晋軍は河曲(晋地)に布陣して秦軍を待ちました。
 
これ以前、趙盾は韓厥を霊公に推挙して司馬(軍司馬。軍中の法を掌る官)に任命しました。韓厥は韓献子といい、韓万の玄孫の子・韓輿の子にあたります。
河曲で駐軍した時、趙盾の部下が車に乗って隊列を乱しました。韓厥はそれを捕えて処刑します。
人々はこう噂しました「韓厥は善い終わり方をしないだろう。朝、車僕の主(趙盾)が彼を抜擢したのに、暮れには車僕を殺した。このような仕打ちに誰が我慢できるだろう。」
しかし趙盾は韓厥を招くと礼をもって遇し、こう言いました「国君に仕える者は義によって結ばれ、党を組むことはないという。忠信によって正義の者を推挙することを比(義によって結ばれること)という。人材を推挙しながら私情によって交わることを党(私党を組むこと)という。軍法は犯してはならず、犯す者がいたら隠してはならない。これは義(正義)である。わしは汝を国君に推挙したが、汝が相応しくないのではないかと恐れた。相応しくない者を推挙することほど、大きな党(結党)はない。国君に仕えながら私党を組むようでは、今後どうして政治を行うことができるだろう。わしは汝を試すためにわざと部下を使ったのだ。汝はこれからも職務に励め。将来、晋国を掌管できるのは汝しかいないだろう。」
趙盾が諸大夫に宣言しました「皆、わしを祝賀せよ!わしが韓厥を推挙したのは正しいことだった。わしは私党を結ぶという過ちを犯していないと確信できた!」
 
秦軍が接近すると、臾駢が趙盾に言いました「秦軍は長く遠征を続けることができないはずです。営塁を高くして守りを固めるべきです。」
趙盾はこれに従いました。
 
秦康公が士会に策を聞くと、士会はこう言いました「晋軍では、趙氏が最近抜擢した臾駢が策を練っており、我が軍の疲労を待っています。趙氏には穿という側室の子がいます(趙盾の従兄弟です)。晋君(恐らく襄公)の壻であり、寵(趙盾の寵愛)を受けています。しかしまだ若く軍事に明るくありません。また、勇猛を好み、狂妄で、しかも臾駢が上軍の佐でいることに不満を持っています。勇敢かつ俊敏な兵を選んで襲わせれば、あるいは勝てるかもしれません。」
康公は進言に納得し、璧を黄河に沈めて戦勝を祈りました。
 
十二月戊午(初四日)、秦軍が晋の上軍を攻撃しました。秦軍が退いても上軍の佐・臾駢は追撃しません。趙穿が兵を率いて追撃しましたが、追いつけませんでした。趙穿は軍の将・佐ではありませんが、卿として自分の兵を擁していたようです。
陣に帰った趙穿が怒って言いました「食糧を用意して甲冑を身につけているのは敵を求めるためだ。敵が来たのになぜ撃たない!いつまで待機するつもりだ!」
臾駢に対する不満を明らかにしています。
軍吏が「将(趙盾)が待機を命じています」と言って諫めましたが、趙穿は「わしには策謀など関係ない。一人で撃って出る!」と言って出撃しました。
趙盾が言いました「秦が穿を捕えたら、一卿を捕えたことになる。秦が勝利を得て帰還したら、わしは国人に会わせる顔がない。」
趙盾は全軍の出撃を命じます。両軍が激突して互角の戦いを繰り広げてから、双方、兵を陣に還しました。
 
夜、秦軍が晋陣に使者を送ってこう伝えました「両君の士がまだ満足していない(昼の戦いでは引き分けだったためです)。明日、再会しよう。」
臾駢が趙盾に言いました「秦の使者は目も声も安定していませんでした。我々を恐れているからです。恐らく撤退するつもりでしょう。追撃して黄河まで追いつめれば敗ることができます。」
趙盾はこれに従おうとしましたが、胥甲と趙穿が軍門で叫んで言いました「死傷者をまだ回収していないのに、それを棄てて戦うのは不恵(不仁)だ!約束の時になっていないのに出撃し、しかも険しい地に人を追い込むのは無勇だ!」
結局、趙盾は出撃せず、秦軍は夜の間に撤退しました。

以上は『春秋左氏伝(文公十二年)』の記述です。『史記・晋世家』は「秦康公が晋を攻めて羈馬を取った。晋は怒って趙盾、趙穿、郤缺を撃たせ、河曲で大戦した。趙穿があった」と書いています。
 
暫くして秦軍が再び晋を攻撃し、瑕地に進攻しました。
 
[] 魯の季孫行父が軍を指揮して諸と鄆に城を築きました。
 
 
 
次回に続きます。