春秋時代89 東周匡王(一) 扈の盟 前612年

今回から東周匡王の時代です。
 
匡王
東周頃王が死に、子の班が立ちました。これを匡王といいます。
 

匡王元年
612年 己酉
 
[] 春、魯の季孫行父(季文子)が晋に入りました。前年、斉が捕えた単伯(周の卿士)と子叔姫について晋に調停を頼むためです。
 
[] 三月、宋の司馬・華孫(華耦。華は氏、耦が名)が魯に来て盟を結びました。随行の官員を多数率いています。
魯文公が宴を開いてもてなそうとすると、華耦は辞退してこう言いました「先臣の督(華督。華父督)は宋殤公の罪を得て(東周桓王十年・710年、華督は宋殤公を殺害しました)、その名が諸侯の簡策に記されました。臣はその祀を受け継いでいます(罪人の子孫です。華督は華耦の曽祖父にあたります)。宴に同席して国君を辱めるわけにはいきません。亜旅(上大夫の官)として命をお与えください。」
魯の人々は華耦の聡明さを称賛しました。
 
[] 夏、曹伯(文公)が魯に来朝しました。諸侯は五年ごとに互いに朝見して天子の命を確認しあうことが古の礼とされていました。
 
[] 前年、魯の公孫敖が斉で死にました。孟氏(公孫敖の家族)は魯に埋葬したいと希望しましたが、魯朝廷は拒否しました。
斉の人が孟氏のために言いました「魯はあなた方の親族です。飾棺(装飾された棺)を堂阜(斉の西境)に置けば、魯は必ず受け入れるでしょう。」
孟氏はこれに従いました。
それを知った魯の卞人(卞邑大夫)が朝廷に報告します。孟孫難(恵叔。公孫敖の子)が悲哀で痩せ衰えた姿をして棺の受け入れを請願し、朝廷に立ち続けました。
文公はついに公孫敖の棺の受け入れを許可します。
孟孫難は棺を取りに行き、斉も人を出して護送しました。共仲の葬礼(共仲は慶父です。国卿でしたが罪によって葬儀の格が落とされました)に則って葬儀が行われます。
声己(孟孫難の母)は棺を見ず、帷堂(帳に覆われた部屋)に入って泣きました。棺に近づかなかったのは公孫敖が莒女に従って出奔したことを怨んでいたためのようです。
 
公子・遂(襄仲)は泣こうとしませんでした。公子・遂と公孫敖は従父兄弟の関係にあり、本来は哭礼をしなければなりません。しかし公子・遂は莒女を奪った公孫敖を赦していませんでした。
孟孫難が言いました「葬儀とは最後に親しい人に会う場所です。善い始まりではなかったとしても(生前に対立したとしても)、善い終わりを迎えることができれば充分でしょう。史佚西周の史官)はこう言いました『兄弟の間は美しくしなければならない。貧困を助け、好事を祝賀し、災禍を弔い、恭敬に祭りを行い、喪を哀しむべきだ。この五者に対してたとえ感情が同じではなくても、その愛を絶つべきではない。これが親族の道である。』あなたは道を失うべきではありません。他者を怨んで何になるのですか。」
納得した公子・遂は兄弟を連れて哭礼を行いました。
 
後に公孫敖が莒にいる時にできた二子が魯に来ました。仲孫蔑(孟献子。文伯・孟孫穀の子)は二人を愛し、魯国中の人がそれを知るようになりました。
しかしある人が二人を讒言し、仲孫蔑に「二子があなたを殺そうとしています」と言いました。仲孫蔑はこれを季孫行父に話します
讒言されたことを知った二子はこう言いました「夫子(仲孫蔑)が我々を愛していることは誰もが知っている。しかし我々は彼を殺そうとしているという噂で名を知られるようになった。これは礼から遠く離れたことではないか。礼から遠く離れてしまったら死んだ方がましだ。」
やがて、一人は句(魯邑)の門を守り、一人は戻丘(魯邑)の門を守り、敵に襲われた時、命をかけて戦って討死しました。
 
[] 六月辛丑朔、日食がありました。
魯は社(土地神の社)で鼓を叩き、犠牲を捧げて祭りました。
古代の礼では、日食があったら天子は食事を減らし音楽を禁止して社で鼓を叩き、諸侯は幣(玉帛)を社に納めて朝廷で鼓を叩くことで、神を敬い、民を導き、君に仕えることを示しました。
魯が朝廷ではなく社で鼓を打ち、幣ではなく犠牲を捧げたのは、非礼とされました。
 
[] 斉が単伯の請い(子叔姫を魯に帰らせること)に同意し、単伯を魯に送りました。
 
[] 新城の盟(前年)に蔡が参加しませんでした。
晋の郤缺が上軍と下軍を率いて蔡を攻め、こう言いました「国君(晋霊公)はまだ幼い。我々が怠けるわけにはいかない(臣下が覇業を疎かにしてはならない)。」
中軍が出征しないのは趙盾が動かなかったからです。
 
戊申(初八日)、晋軍が蔡に入り、城下で盟を結んで兵を還しました。
 
[] 秋、斉が魯の西境を侵しました。季孫行父が晋に行って急を告げました。
 
[] 冬十一月、晋侯(霊公)・宋公(昭公)・衛侯(成公)・蔡侯(荘侯)・鄭伯(穆公)・許男(昭公)・曹伯(文公)が扈(鄭地)で盟しました。新城の盟約を確認し、斉討伐が相談されます。
しかし斉が晋霊公に賄賂を贈ったため、諸侯は斉に勝つ前に解散しました。
魯は斉の攻撃を受けていたため、会に参加しませんでした。
 
[] 十二月、斉が子叔姫を魯に還しました。
 
[十一] 斉懿公が再び魯の西境を攻撃しました。諸侯が魯を援けないと知ったからです。
斉軍は曹にも侵攻し、郛(外城)に入りました。曹を攻撃したのは夏に曹が魯を朝見したからです。
 
魯の季孫行父が言いました「斉侯は禍から逃れられないだろう。自分自身が礼から外れているのに、礼がある者を討伐した。斉侯は曹が礼を行ったこと(魯に朝見したこと)を譴責したが、礼とは天に順じるためにあり、天の道である。自ら天に反して人を討つとは、禍から逃れられるはずがない。『詩(小雅・雨無正)』にはこうある『なぜ上下が尊畏しないのか。天を恐れることがないからだ(胡不相畏,不畏于天)。』君子が幼小や卑賤を虐げないのは天を恐れるからだ。『周頌詩経・周頌・我将)』もこう言っている『天の威を恐れれば、福禄を保つことができる(畏天之威,于時保之)。』天を恐れることなくして、どうして自分の身を保つことができるだろう。乱によって国を取った者は(斉懿公は国君・舎を殺して即位しました)、たとえ礼を奉じてその地位を守ろうとしても、終わりを全うできないことを恐れるものだ。逆に無礼を多く行うようでは、良い終わりを迎えることはできない。」
 
[十二] この年、蔡の荘侯が在位三十四年で死に、子の申が立ちました。文侯といいます。