春秋時代第二期に入る前に

今回から春秋時代第二期に入ります。
対象になるのは
匡王・定王・簡王・霊王 紀元前612545
の約六十五年間です。
 
第二期概略
東周平王の東遷によって始まった春秋時代も百六十年近くが経ちました。
第一期ではまず斉桓公が覇者となりました。しかし桓公が死ぬと後継者争いのため、斉は覇権を失います。覇権は東から西に移り、晋文公が二代目の覇者になりました。文公の在位期間は九年しかありませんでしたが、晋は一大強国となり、覇者の地位を守ることができました。
その間に南方の後進国だった楚も勢力を拡大し、中原への影響力を大きくしました。
春秋時代を通して中原の晋と南方の楚は大きな戦いを三回繰り返しましたが、そのうちの二回は第二期に当たります(邲の戦いと鄢陵の戦いです。もう一つは第一期の城濮の戦いです)
第二期は覇権を守る晋と、中原に台頭する楚の攻防の時代といえます。
 
東周匡王の時代、晋は霊公が治めていました。しかし暴虐な霊公は人心を失い、趙氏によって殺されてしまいます。
その後、晋は成公、景公が即位して大国の地位を保ちましたが、智氏、趙氏等の権臣が実際の政治を行い、公室は次第に衰退していくことになります。
 
東周匡王の元年は楚荘王の元年でもあります。晋が霊公の政治によって混乱している間に、荘王は着々と国力を増強させました。
周匡王が死に定王が即位した頃、楚荘王は北上して陸渾の戎を討伐し、更に兵を進めて周都・洛邑周辺に至りました。荘王は周王室に鼎の軽重を問い、天命が周から楚に移ったことを示唆します。
当時、楚には中原を統一する力がまだなかったため、この時は兵を南に還しましたが、その後も度々出兵して宋・鄭・陳等の中原諸国に対する影響力を拡大していきました。
その結果、中原の覇者・晋との決戦を迎えることになります。
 
東周定王十年(前597年)、邲の戦いが勃発しました。結果は楚の大勝に終わります。楚荘王は鄭・宋・魯等を帰服させ、斉とも友好関係を結んで中原の覇権を手に入れました。
荘王は春秋五覇の一人に数えられることもあります。
 
楚荘王に大敗した晋の国君は景公です。しかし、景公は春秋時代を代表する優れた国君の一人でした。邲の敗戦後、景公は優秀な人材を多く用いて国力を回復させていきます。
楚荘王が死ぬと、晋は魯・衛と結んでまず斉を討伐し、大勝しました。東周定王十八年(前589年)の鞍の戦いです。
晋は中原の覇者としての威信を回復させていきましたが、一方の楚も鄭・蔡等と連合して魯や衛を攻撃し、一度離れた中原諸国を再び帰順させます。楚共王は秦・斉・魯・衛・宋等、十数国と盟を結びました。
 
中原諸侯が晋から離れて楚に従ったため、晋は楚の東南に位置する新興国・呉と連合することにしました。
呉は晋の援けを得て国力を急速に向上させ、楚を挟み込む形を作ります。
 
晋と楚の対立が続く中、平和を求める動きも生まれました。晋・楚二大強国が覇権を争う時、戦場になるのは間に位置する宋・鄭・陳等の中小国です。そこで宋の大夫・華元によって和平交渉が進められました。こうして開かれたのが東周簡王七年(前579年)の「弭兵の会」です。「弭兵」の「弭」は「停止する」という意味です。
 
しかしこの平和はわずかな期間しか続きませんでした。休戦の間に兵を整えた晋と楚は、東周簡王十一年(前575年)、鄢陵で衝突します。
この戦いでは晋が楚に大勝し、覇者の地位を固めることに成功しました。中原への進出を挫かれた楚はこの後も宋や鄭、陳、蔡等を攻撃し、晋との対立を続けますが、東南で興隆した呉への対応に力を注ぐようになっていきます。
 
第一次弭兵の会から約三十年が経った東周霊王二十六年(前546年)、宋が再び和平を提唱し、第二次弭兵の会が開かれました。宋の向戌が中心になったため、向戌弭兵ともよばれます。
二回目の和平は成功し、晋楚間での大きな戦いは発生しなくなりました。
第三期では呉楚、呉越の対立が激化していきます。
 
 
第二期の主要国(周を除いた十三国)の君主は以下となります。
:康公・共公・桓公・景公
:文公・宣公・成公・襄公
:懿公・恵公・頃公・霊公・荘公・景公
:霊公・成公・景公・厲公・悼公・平公
:荘王・共王・康王
:昭公・文公・共公・平公
:成公・穆公・定公・献公・殤公・献公(後)
:霊公・成公・哀公
:荘侯・文侯・景侯
:文公・宣公・成公・武公
:穆公・霊公・襄公・悼公・成公・釐公・簡公
桓公・宣公・昭公・武公・文公・懿公
:寿夢・諸樊・餘祭
(『史記・十二諸侯年表』を参考にしました)
 
 
参考書籍
第二期も今までと同じく、編年体史書『春秋左氏伝』が主な資料となります。また、『資治通鑑外紀』が『国語』から多くの内容を引用しているため、『春秋左氏伝』と併せて『国語』も意訳していきます。
その他、『史記』の「本紀(周本紀・秦本紀)」、『竹書紀年』(古本・今本)、『帝王世紀』『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』『十八史略』の記述も載せていきますが、特別な場合を除いて書名はいちいち紹介しません。
それぞれの書籍に関してはこちらを参考にしてください。
また、文中の干支(甲子、乙丑、丙寅等)の後ろにつけた日付、例えば「乙亥(十二日)」等は楊伯峻の『春秋左伝注』を参考にします。


晋・楚が覇権を争った中原諸国の地図です。『中国歴史年表(第一冊)』を元にしました。
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次回から東周匡王の時代です。

春秋時代89 東周匡王(一) 扈の盟 前612年

 

春秋時代の目録はこちらです。