春秋時代90 東周匡王(二) 楚荘王 前611年(1)

今回は東周匡王二年です。二回に分けます。
 
匡王二年
611年 庚戍
 
[] 春正月、魯文公が病にかかりました。
この頃、文公は斉と和を結ぶため、季文子(季孫行父)を派遣しました。季文子は斉懿公と陽穀で会い、結盟を請いましたが、斉懿公は「魯君が治ってから盟を結ぶ」と言って断りました。諸侯が大夫と盟を結ぶのは礼を失しているからです。
 
春から夏五月まで、魯文公は病のため四回(二月、三月、四月、五月)にわたって「視朔(毎月朔日、廟に朔の報告をした後、一月の政事について群臣から報告を聴く儀式)」ができませんでした。
 
魯文公が公子・遂(襄仲)を斉に派遣し、斉懿公に賄賂を贈りました。
六月戊辰(初四日)、公子・遂が(または「犀丘」「師丘」。斉地)で斉懿公と盟を結びました。
 
[] 魯都・曲阜の南郊に位置する郎邑の泉宮から蛇が現れ、国都に入りました。蛇の数は魯の先君の数(伯禽から釐公まで十七代)と同じ、十七匹でした。
秋八月辛未(初八日)、魯の釐公夫人・姜氏(声姜。文公の母)が死にました。
魯の人々は蛇の出現と声姜の死が関係あると思い、泉台を破壊しました。
 
[] 楚を大飢饉が襲いました。
戎族(山夷)が楚の西南を攻撃して阜山に至り、大林に駐軍しました。また、楚の東南も攻撃して陽丘に至り、訾枝を攻めました。
庸国も群蛮を率いて楚に背き、麇国も百濮を率いて選(楚地)に集まり、楚攻撃の準備をします。
楚の申と息は敵の攻撃を恐れて北門を開けなくなりました
 
楚の人々は険阻な阪高に遷ることを相談しました。しかし蔿賈が反対して言いました「我々が行くことができる場所は、寇(敵)も行くことができる。我々は逃げるのではなく、庸を攻撃するべきだ。麇と百濮は我々が飢えて兵を動かすことができないと思っているから、攻撃の準備を進めているのだ。もし我々が出師したら、驚いて退き返すだろう。百濮は分散して生活している。それぞれが自分の邑に帰ったら、敢えて討って出ることを考える者はいなくなるはずだ。」
楚が兵を出すと、十五日後に百濮が解散しました
 
楚都・郢を出た楚軍は、廬までは出征時に準備した食糧を消費し、それ以降は各地で倉庫を開いて将兵が一緒に食事をしました。
楚の西境・句澨に駐軍すると、廬戢黎を送って庸を攻めます。しかし、廬戢黎は庸の方城で撃退され、子揚窗(窗が名。子揚は字)が捕えられました。
三日後、子揚窗が楚営に逃げ帰って報告しました「庸師は兵が多く、群蛮も集まっています。大師(大軍)を発し、王卒(国王直属の兵)も動員するべきです。」
しかし師叔(大夫・潘尩)がこう言いました「暫く今のまま交戦を続けて敵を驕らせよう。敵が驕ればわが士は憤激し、最後は勝つことができる。先君の蚡冒もこうして陘隰を帰順させたのだ。」
楚軍は庸軍に七回戦いを仕掛け、七回とも敗れて撤退しました。庸国が率いる群蛮の中で裨・鯈・魚の三部族が楚軍を追撃します。庸の人々は「楚とまともに戦う必要はない」と言って備えを疎かにしました。
 
楚荘王が馹(伝車。駅車)に乗って臨品で軍と合流し、楚軍を二隊に分けました。子越が石溪から、子貝が仞から出発して庸を攻めます。秦と巴も楚に協力して兵を出しました。
群蛮は精強な楚軍を見ると、荘王と盟を結びました。
 
楚は庸を滅ぼしました。
 
[] 楚荘王は春秋五覇の一人にも数えられる優秀な主君ですが、即位したばかりの時は政事を行いませんでした。以下、『史記・楚世家』の記述です。
荘王は即位三年、政令を出さず、日夜宴を開き、国内に「敢えて諫言する者は死罪に処す(有敢諫者死無赦)」と宣言しました。
見かねた伍挙が諫めに行った時、荘王は左に鄭姫を右に越女を抱き、鍾鼓の間に坐っていました。伍挙が言いました「隠(隠語。なぞかけ)を献上したく存じます。」
荘王が許すと、伍挙が言いました「丘の上に鳥がいます。その鳥は、三年飛ばず、三年鳴くこともありません。これは何の鳥でしょう。」
荘王が言いました「三年も飛ばない鳥は、一度飛んだら天を衝くであろう。三年も泣かない鳥は、一度鳴いたら人を驚かすであろう。伍挙よ、退がれ。わしは分かっている。」
 
しかし数カ月後にはますます放縦淫乱になりました。大夫・蘇従が改めて諫めに行くと、荘王が言いました「諫言したら死刑にするという命令を聞いたことがないのか?」
蘇従が言いました「自分の身を殺すことで国君を明(賢明)にすることができるのなら、それは臣が望むことです。」
荘王は淫行悦楽を棄てて自ら政治を行い、三年の間に見極めた奸臣・佞臣数百人を処刑して、優秀な者数百人を抜擢しました。伍挙と蘇従が政治を委ねられます。それを知った国人は大喜びしました。
荘王が政治を始めた年、楚は庸を滅ぼしました。
 
伍挙の諫言は「鳴かず飛ばず」という言葉を生みました。但し、書籍によって内容が若干異なります。以下、『呂氏春秋』と『韓非子』の記述を紹介します。
 
まずは『呂氏春秋・審応覧・重言』からです。
(楚)の荘王は即位して三年、政治を行わず、隠(なぞかけ)を好みました。
ある日、成公賈が諫めようとすると、荘王が言いました「不穀(君主の自称)が諫言を禁じているのに、汝はなぜ諫めに来たのだ?」
成公賈が言いました「臣は敢えて諫めに来たのではありません。君王に陰語を献上しに来たのです。」
荘王が成公賈に話しをさせると、成公賈はこう言いました「ある鳥が南方の丘に止まっています。その鳥は三年間動かず、飛ばず、鳴きません。何の鳥でしょう。」
荘王が答えました「南方の丘に止まっている鳥が三年動かないのは、志意(意志)を固めているからだ。三年飛ばないのは、羽翼が伸びるのを待っているからだ。三年鳴かないのは、民の法度を観察しているからだ。この鳥はまだ飛ばないが、一度飛んだら天を衝くだろう。この鳥はまだ鳴かないが、一度鳴いたら人々を驚かすだろう。賈よ、退がれ。不穀はわかっている。」
翌朝、荘王は五人を抜擢して十人を退けました。群臣は大喜びし、荊国の人々は互いに祝賀しました。
 
次は韓非子・喩老』からです。
楚荘王は即位して三年、政令を出すことなく、政事も行いませんでした。そこで右司馬が荘王の傍に坐り、こう言いました「南方の丘に鳥がいます。その鳥は三年も羽ばたかず、飛ぶことも鳴くこともありません。黙ったまま声を発さないこの鳥は、何という名でしょう。」
荘王が言いました「三年羽ばたかないのは、羽翼が伸びるのを待っているのだ。飛ばず鳴かないのは、民の状況を観察しているからだ。たとえまだ飛ぶことがなくても、一度飛んだら天を衝くだろう。たとえまだ鳴くことがなくても、一度鳴いたら人々を驚かすだろう。汝が心配することではない。不穀はわかっている。」
半年後、荘王は自ら政事を行い、十の政策を廃して九つの政策を始めました。また、五人の大臣を誅殺して六人の処士を登用し、善政を行って国を安定させました。
 
蘇従の進言に関しては『説苑・正諫』に記述があります。
楚荘王は即位してから三年間政事を行わず、「寡人(国君の自称)は人臣がその君を諫めることを嫌う。今、寡人は国家を擁し、社稷を立てた。諫言する者は死罪に処す」と宣言しました。
蘇従はこう考えました「国君から高爵を得て、国君の厚禄を食しながら、命を惜しんで国君を諫めないようでは、忠臣ではない。」
そこで蘇従は諫言するために入宮しました。荘王は鼓鐘の間に坐り、左に楊姫を伏せ、右に越姫を抱き、左に裯衽(布団)を、右に朝服を置いています。荘王が蘇従に言いました「わしの鼓鐘に暇はない(遊んでいるため諫言を聴く時間はない)。何を諫めに来たのだ。」
蘇従が言いました「道を好む者は資(資産・財産)が多く、楽(音楽。享楽)を好む者は迷いが多く、道を好む者は糧(食糧)が多く、楽を好む者は多くが亡ぶといいます。(楚国)の滅亡は近いでしょう。死臣は敢えてこれを王に報告に来ました。」
荘王は蘇従を褒め、左手で蘇従の手をとると、右手で小刀を持って鐘鼓を吊る縄を切り落としました。
翌日、蘇従は相に任命されました。

楚荘王は「絶纓の会」でも知られています。『説苑・復恩(巻六)』に記述があります。但し、いつの事かははっきりしません。以下、簡訳します。
ある日、楚荘王が群臣を集めて酒宴を開きました。
日が暮れて酒がまわった頃、突然、(風が吹いたため)灯燭の火が消えました。すると一人の男が闇に乗じて美人(荘王の妻妾)の衣服を引っ張りました。美人はとっさに男の冠から(冠を固定する紐)を取り、王にこう言いました「灯燭の火が消えた隙に妾(私)の衣を引く者がいました。妾はとっさに冠纓をつかんで持って来ました。早く火を点けて纓が絶たれた(切れた)者を見つけてください。」
しかし荘王はこう言いました「人に酒を与えて(酒宴を開いて)酔わせたから礼を失したのだ。婦人の節を顕揚するために士を辱めるようなことはしたくない。」
荘王は左右の近臣に命じてこう宣言させました「今日は寡人と飲め。但し、冠纓を絶たない者は飲んではならない。」
百余人の群臣が冠纓を切ってからやっと火が点けられました。
荘王も群臣も心ゆくまで宴を楽しみました。
 
三年後、晋と楚が戦いました(一説では東周定王十年597年の邲の戦い)。一人の臣が常に荘王の前におり、五回晋軍とぶつかって五回とも奮戦します。そのおかげで晋軍を撃退し、勝利を得ることができました。
不思議に思った荘王が問いました「寡人は徳が薄く、子(汝)を特に重用したこともない。それなのに子はなぜそのように死を恐れないのだ?」
男が答えました「臣は死に値します。かつて酔って礼を失いましたが、王は隠忍(我慢)して誅を加えませんでした。臣は蔭蔽の徳(庇護してもらった恩)があるので、王に報いないわけにはいかないと思い、肝脳塗地(肝や脳で地を塗ること。身を犠牲にすること)して頸血を敵にそそぐ機会を久しく待っていました。臣があの夜の絶纓の者です。」
楚軍はこの戦いで晋軍を破って強盛になりました。
隠徳(隠れた徳)がある者には必ず陽報(明らかな報い)があるという話です。

以上、楚荘王に関する故事を紹介しました。
 
 
 
次回に続きます。