春秋時代97 東周定王(二) 食指が動く 楚の若敖氏 前605年

今回は東周定王二年です。
 
定王二年
605年 丙辰
 
[] 春正月、魯宣公と斉恵公が莒と郯(少皞の子孫の国。己姓または嬴姓)を講和させようとしました。しかし莒は従おうとしません。
魯宣公が莒を討伐して向邑を占領しました。
『春秋左氏伝(宣公四年)』はこの出来事を「乱(動乱・戦争)によって乱を収めるのは非礼」と非難しています。
 
[] 『春秋』経文によると、この年、秦伯・稻(共公)が在位四年で死にました。しかし『史記』の『秦本紀』と『十二諸侯年表』は共公の在位年数を五年(翌年死亡)としています。また、共公の名は、『春秋』では「稲」ですが、『秦本紀』の「索隠」では「」、『十二諸侯年表』では「和」と書かれています。
資治通鑑外紀』は『春秋』に従って、秦共公の死をこの年に書いています。
 
共公の子・榮が立ちました。これを桓公といいます。
 
[] この頃、楚が鄭霊公に黿(大亀)を贈りました。
鄭の公子・宋(子公)と子家(帰生。史記・鄭世家』の注によると二人とも卿が霊公に会い行く時、子公の食指(薬指)が動きました。子公が子家にそれを見せて言いました「以前もこのようなことがあった。異味(美味)にありつけるはずだ。」
二人が入朝すると、宰夫が黿を調理していました。二人は互いの顔を見て笑います。そこに霊公が来て何を笑っているのか尋ねたため、子家が理由を話しました。
暫くすると、霊公が黿の料理で諸大夫をもてなしました。ところが子公だけ料理がありません。霊公の悪戯です。
怒った子公は指を鼎に入れると、それを舐めて出ていきました。
子公の無礼に霊公が激怒し、子公を殺そうとします。
危険を察した子公は子家に謀反を相談しました。しかし子家が言いました「老いた家畜が相手でも殺す時にはためらうものだ。相手が国君ならなおさらだろう。」
すると子公は逆に霊公に対して子家を讒言しました。
子家は恐れて子公に従うことにしました。
 
夏六月乙酉(二十六日)、霊公が殺されました。死んだばかりの時は「幽公」という諡号が贈られました。後に「霊公」に改められます。
 
鄭人は子良を国君に立てようとしました。子良は公子・去疾といい、穆公の庶子で、霊公の弟にあたります。しかし子良は「賢においては、私は不足しています。順(序列)においては、公子・堅が長じています」と言って断りました。公子・堅は霊公の庶弟で、子良の兄です。
こうして公子・堅が即位しました。襄公といいます。
 
襄公は穆氏(穆公の庶子。襄公の兄弟)を駆逐し、子良だけを国内に残そうとしました。しかし子良が反対して言いました「穆氏が存続するのは私の願いです。もしも穆氏が亡ぶのなら、私だけ残っても意味がありません。」
襄公は穆氏を全て大夫にしました。後に罕・駟・豊・游・印・国・良の七氏が「七穆」という名家として、その家系を継承していきます。
 
[] 赤狄が斉を侵しました。
 
[] 秋、魯宣公が斉に行き、暫くして帰国しました。
 
[] かつて楚の司馬・子良が子越椒椒。子越。字は伯棼、または伯賁を産んだ時、子良の兄で令尹の子文がこう言いました「殺すべきだ。この子は熊虎の姿と豺狼の声をしている。殺さなければ若敖氏を滅ぼすことになるだろう。『狼の子には野心がある(狼子野心)』という諺がある。この子は狼だ。養ってはならない。」
しかし子良は同意しませんでした。
子文は子越椒のことを憂い続け、死ぬ前に族人を集めてこう言いました「椒が政治をするようになったら、速やかに逃げろ。そうすれば難が及ぶことはないだろう。」
また、泣いてこう言いました「鬼(霊。祖先)が食を求めたとしても、若敖氏の鬼は飢えてしまうだろう(若敖氏が亡ぶため、祭祀を行う者がいなくなってしまうという意味です)。」
 
子文は令尹の職を子玉に譲りました。その後、蔿呂臣、子上、成大心、成嘉と継ぎ、子揚般)が令尹になりました。子越は司馬に任命されます。
暫くして、工正になった(字は伯嬴)が子越のために子揚を讒言して殺しました。子越が令尹に、蔿賈が司馬に昇格します。
ところが子越は蔿賈を嫌い、若敖氏の族人を使って賈を轑陽で捕え、殺してしまいました。更に子越は烝野(地名)で楚荘王攻撃の準備を進めます。
荘王は三王(文王・成王・穆王)の子孫を人質に送って講和を求めましたが、子越は拒否しました。
そこで荘王は子越討伐のため漳澨(漳水の岸)に駐軍しました。

以上は『春秋左氏伝(宣公四年)』の記述です。『史記・楚世家』は「若敖氏子越椒が相を勤めていたが、あるに讒言したため、誅殺を恐れて逆にを攻めた」と書いています。

『春秋左氏伝』に戻ります。
秋七月戊戌(初九日)、楚荘王と若敖氏(子越とその一族)滸で戦いました。子越が荘王に矢を射ると、強矢は車轅(馬牛や人が車を牽く部分)を越えて鼓架を通りぬけ、丁寧(銅鉦)に中りました。二発目の矢も車轅を越えて車蓋を貫きました(荘王と子越は対峙しています。子越が射た矢は一発目も二発目も車轅を越えて荘王の傍を通りましたが、一発目は低かったため太鼓を置く台の下を通って鉦に中り、二発目は高かったため車の屋根に中りました)。荘王の将兵は子越の矢の勢いを見て恐れ、退却しようとしました。
しかし荘王は陣中の各所に部下を分派してこう伝えました「我が先君・文王が息国を破った時、三本の矢を得た。伯棼はその内の二矢を盗んだが、既に使い果たしてしまった(だから恐れる必要はない)。」
荘王が戦鼓を叩いて前進を命じると、若敖氏は敗れて滅亡しました。
 
かつて楚王の先祖・若敖は●(「云」の右に「阝」。一説では「鄖国」と同じ)から妻を娶って伯比を産みました。若敖が死ぬと伯比は母に従って●国で育ちました。成長した伯比は●子(●の国君)の娘と私通して子を産みました。●夫人は子を雲夢沢に棄てさせましたが、虎が子を育てます。
ある日、●子が狩りをした時、虎が子を育てている様子を見ました。驚いて宮中に帰ると、夫人が娘の私生児だと伝えます。●子はその子を養うことにしました。
楚人は乳を「穀」といい、虎を「於菟」とよんだため、子は「穀於菟」と命名されました。娘は正式に伯比に嫁ぎます。
こうして育てられることになった穀於菟」が、楚の令尹・子文です。
 
子文の孫にあたる箴尹(官名)・克黄(子揚の子)は使者として斉を訪問しており、帰国途中の宋で若敖氏の乱を知りました。従者が「国に入るべきではありません」と言いましたが、克黄は「君命を棄てるような者を、誰が受け入れるというのだ。君とは天だ。天から逃げられると思うか」と言って復命し、自ら縛って司敗(法官)に出頭しました。
荘王は子文の治国による功績を認めていたため、「子文の子孫がいなくなったら、人々に善を勧めることができなくなる」と言って克黄の官を元に戻し、「生」に改名させました。
 
[] 冬、楚が鄭を討伐しました。鄭が楚に服従しなかったためです。
 
 
 
次回に続きます。