春秋時代 楚荘王と孫叔敖(二)

今回も楚荘王や孫叔敖に関する記述を紹介します。前回の続きです。

春秋時代 楚荘王と孫叔敖(一)



まずは『呂氏春秋・不苟論・賛能』からです。孫叔敖の登用について、前回と異なる説が紹介されています。沈尹茎という友人が孫叔敖を推挙したことになっており、「賢人を進めることほど大きな功績は無い」とまとめています。
孫叔敖と沈尹茎は交流があり、友となりました。孫叔敖はかつて楚都・郢に三年間遊行しましたが、名声も徳行も知られることがありませんでした。その様子を見て沈尹茎が言いました「義(道理)を語って相手を納得させ、方策を行って必ず達成させ、人主(国君)を上なら国王に、下でも覇者にする能力は、私はあなたに及ばない。しかし、世俗と接し、義を述べて均等に調和し、人主の心に沿う能力においては、あなたは私に及ばない。あなたはまず故郷に帰って耕作をするべきだ。私があなたのために遊説しよう。」
沈尹茎は郢都に五年滞在しました。
その結果、荊王(楚荘王)は沈尹茎の名声を聞いて令尹に任命しようとしました。そこで沈尹茎が言いました「期思(地名)の鄙人(郊野の農夫)に孫叔敖という者がいます。彼こそが聖人なので、王は彼を用いるべきです。臣は彼に及びません。」
荊王は使者を送り、王輿(王が乗る車)で孫叔敖を迎え入れて令尹に任命しました。
そのおかげで、十二年後に荘王は覇を称えることができました。
 
 
次は『史記・循吏列伝(巻百十九)』からです。
孫叔敖は楚の処士(隠者)でしたが、相(令尹)の虞丘(虞丘子)が自分の代わりとして荘王に推挙しました。
孫叔敖は登用されて三カ月で楚相になり、民を導き教え、上下(官民)を和合させ、世俗を美しくしました。寛大な政治を行いましたが、禁止するべきことは厳しく禁止されます。そのおかげで、官吏は姦邪を働かず、盗賊もいなくなりました。
秋冬は民に山での伐採を奨励し、春夏になって川の水が増したら材木を流して運ばせます。
民は皆、収入を得て安定した生活を楽しむようになりました。
 
荘王は楚の貨幣が軽すぎると思い、小銭を大銭に鋳直しました。しかし百姓(民)はそれを不便に思い、自分の本業(商業・工業等)を棄ててしまいます。
市令(市場の長)が相・孫叔敖に言いました「市場が混乱し、民は安心して売買ができず、秩序がなくなっています。」
孫叔敖が言いました「このような状況がどれくらい続いたか?」
市令が答えました「既に三カ月ほど続いています。」
孫叔敖が言いました「わかった。すぐに元の状態を回復させよう。」
五日後、孫叔敖は入朝すると荘王に言いました「以前、貨幣を変更したのは、軽すぎると思ったからです。しかし今、市令が『市場が混乱している』と報告に来ました。旧制に戻すべきです。」
荘王は同意し、新たな政令が発せられ、三日で市場は秩序を回復させました。
この出来事は、民の立場に立って柔軟な態度で政事を行う孫叔敖の姿を物語っています。
 
楚の人々は庳車(背が低い車)を好みました。しかし荘王は、庳車は馬に牽かせるのが不便だと考え、車を高くするように命じようとしました。
すると孫叔敖が言いました「政令が頻繁に出されたら、民は何に従えばいいか分からなくなります。王がどうしても高車を欲するのなら、閭里(臣民の居住区。壁に囲まれた区域に多数の家が建てられていました)の門欄(門の下にある地面に接した横木。石や金属で造られることもあります)を高くすればいいでしょう。車に乗るのは皆、君子(身分が高い者)です。君子はいちいち車から下りることができないので、門欄を高くすれば自然に車も高くなります。」
荘王はこれに同意しました。
半年後、楚の人々は自ら車を高くするようになりました
これは教えなくても民をその教えに従わせる、という方法です。孫叔敖の近くにいる者は、直接その様子を見て倣い、遠くにいる者は、周りの変化に応じて自分の姿を変えていきました。
 
孫叔敖は自分の能力を理解していたため、三回、相(令尹)に任命されてもそれが当然なことだと思い、喜びませんでした。また、三回、相の地位を去りましたが、悔いることはありませんでした。自分に罪がないことを知っていたからです。
 
 
次も孫叔敖についてです。『呂氏春秋・仲春紀・情欲』からです。
(楚)荘王は狩猟を好み、常に馬を馳せ、武器を持って獲物を追っていました。国内の政治や諸侯の対応は全て孫叔敖に任せています。孫叔敖は日夜休むことなく、自分の養生のために時間を費やすこともできませんでした。しかしそのおかげで、荘王の功績は竹帛(紙がない時代の書物)に書きとどめられ、後世に伝えられるようになりました。
 
 
次は『新序・雑事第二』からです。
楚荘王が孫叔敖に言いました「寡人はまだ国是というものを得ていない。」
孫叔敖が言いました「国に是(方針)がないというのは、大衆から嫌われるものです。しかし王は定めることができないでしょう。」
荘王が言いました「国是を定めることができないのは、国君ひとりの責任か?」
孫叔敖が言いました「国君が士に対して驕慢なら、『士はわしがいなければ富貴を得ることができない』と言い、士が国君に対して驕慢なら、『国に士がいなければ安全を得ることができない』と言うでしょう。このような国君は国を失っても悟ることがなく、士は飢寒に至っても仕えようとしません。君臣が一心になれなければ、国是は定まらないものです。夏桀や殷紂は国是を定めず、自分の意見に沿うものを是(正しい)とし、自分の意見に逆らうものを非としました。だから国が滅んでも過ちを知ることがなかったのです。」
荘王は「わかった。相国(令尹)や諸侯・士大夫と共に国是を定めよう。寡人は国君の地位に頼って士民に驕慢になるようなことはない」と答えました。
 
 
『新書・春秋(巻第六)』には孫叔敖が幼かった頃の故事も書かれています。
まだ子供だった孫叔敖が外に遊びに出ました。暫くして家に帰りましたが、憂鬱そうな顔をしており、食事もしません。母が理由を聞くと、孫叔敖は泣いて言いました「今日、両頭の蛇を見ました。私はもうすぐ死ぬはずです。」
母が「蛇はどこにいるのですか」と問いました。
孫叔敖が答えました「両頭の蛇を見た者は死ぬといわれています。私は他の人が両頭の蛇に遭遇することを恐れたので、殺して埋めました。」
母が言いました「心配することはありません。あなたは死にません。『隠れた徳を持つ者には、天が福で報いる(有陰徳者,天報以福)』といいます(あなたは人のために良いことをしたので、天から報われるはずです)。」
この話を聞いた人々は、孫叔敖なら将来、仁政を行うことができると噂し合いました。後に孫叔敖が令尹に任命されると、政治を始める前から国人の信用を得ました。
 
 
最後は『説苑・君道(巻一)』から荘王の話です。
楚荘王は狩猟を好みました。ある日、大夫が諫めて言いました「晋楚は敵対しています。楚が晋を謀らなければ、晋が必ず楚を謀ります。今、王は享楽に耽っていますが、そのような時ではありません。」
すると荘王はこう言いました「わしが狩りをするのは士を求めるためである。狩猟で虎豹を刺し殺させるのは、その勇を知るためだ。犀兕(犀や牛)を捕まえさせるのは、その力を知るためだ。狩りが終わってから獲物を分けさせるのは、その仁を知るためだ。狩猟という道によって三士(勇・力・仁の士)を得ることができれば、楚国は安泰だ。」