春秋時代99 東周定王(四) 楚の拡大 前601年(1)

今回は東周定王六年です。二回に分けます。
 
定王六年
601 丙申
 
[] 春、魯宣公が黄父の会から帰国しました。
 
[] 白狄と晋が講和しました。
夏、白狄が晋と共に秦を攻めました。
晋が秦の諜(間諜)を捕えて絳(晋都)の市で処刑しましたが、六日後に蘇生したといいます。
 
以上は『春秋左氏伝(宣公八年)』の内容で、『竹書紀年』(今本)にも同様の記述があります。
史記・十二諸侯年表』には「晋が魯と共に秦を討ち、間諜を捕え、絳市で殺したが、六日して蘇生した」とあります。白狄が魯になっていますが、恐らく誤りです。
また、『史記・秦本紀』には「間諜」や「蘇生した」という記述がなく、「晋が秦の一将を破った」と書いています。
更に『史記・晋世家』を見ると、「秦を攻めて秦将・赤を捕えた」とあります。「秦将」の名は「赤」というようです。但し、『史記』の注釈(索隠)は「赤は斥であり、斥候の人を指す」と解説しています。「赤」と「斥」は発音が似ているため、「斥候(間諜)」の意味で使われている、という解釈です。
 
同じ事件なのに複数の記述が残されており、真相はわかりません。
 
[] 夏六月、魯の公子・遂(襄仲)が斉に行きましたが、体調がすぐれないため、黄(斉の邑)に至って退き還しました。
 
辛巳(十六日)、魯宣公が太廟(周公廟)で祭祀を行いました。
同日、仲遂(公子・遂)が垂(斉の邑)で死にました。
壬午(十七日)、繹の儀式が行われました。繹とは祭祀の翌日に再び祭りを行うことです。万舞(武舞)が披露されましたが、籥(笛の一種)は除かれました。
卿が死んだ時は「繹」を行わないというきまりがあったため、公子・遂が死んだ翌日に開かれた繹は非礼なこととされました。
 
[] 戊子(二十三日)、魯の文公夫人・贏氏(宣公の母・敬嬴)が死にました。
 
[] 群舒が楚に背いたため、楚が舒蓼(群舒の一つ)を攻めて滅ぼしました。
 
楚荘王は滑汭(滑水が曲がる場所)に至って国境を定め、呉・越と盟して還りました。
 
呉は周太王・亶父の子・太伯と仲雍の子孫の国です(東周定王二十一年・前586年に詳述します)
 
越は『史記・越王句践世家』によると、夏王朝初代王・禹の後裔の国といわれています。かつて、夏后帝・少康が庶子無余を会稽に封じて禹の祭祀を守らせました夏王朝・帝少康二十一年参照)。無余は荒地の草を刈って邑を作り、越を建国します。その子孫は身体に文身をして髪を短くするという、異民族の風習を受け継いでいました。
この時代(東周定王時代)の越の国君が誰かはわかりません。越国建国後、二十余世で允常の代になり、その頃から越は頻繁に登場するようになります。百年程後のことです。
資治通鑑外紀(巻四・東周恵王二十一年)』は一説として、「あるいは越は祝融の子孫を祀る羋姓の国ともいわれている」と書いています。
 
[] 秋七月甲子晦日皆既日食がありました。
これは『春秋』経文の内容です。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、「七」は「十」の誤りで、この年の十月甲子(朔日)に日食があったようです。
史記・十二諸侯年表』も「七月日蝕」と書いていますが、『春秋』経文の誤りをそのまま書いたようです。
 
[] 晋の胥克(下軍の佐)が「蠱疾」にかかりました。「蠱」には「腹の中の虫」という意味があるので、「蠱疾」は食中毒のようです。

当時、趙盾が死んで郤缺(上軍の将)が政治を行っていました。史記・趙世家』によると趙盾の諡号宣孟です。趙氏は趙盾の子・趙朔が継ぎました。

郤缺は病を理由に胥克を廃し、趙盾の子・趙朔を下軍の佐に任命しました。趙朔が六卿(三軍の将・佐)の一人になります。
 
[] 冬十月、魯が小君・敬贏(宣公の母)を埋葬しました。
この年は旱だったため(前年も「大旱」でした)、麻が用意できませんでした。棺を縛る縄には葛が使われます。これを葛茀といい、魯ではこの後、葛茀を使うことが慣わしになりました。
 
己丑(二十六日)、敬嬴を埋葬する予定の日でしたが、雨が降りました。
当時は甲・丙・戊・庚・壬の日を「剛日」、乙・丁・己・辛・癸の日を「柔日」といい、埋葬は柔日に行うというきまりがありました(この風習は、漢代にはなくなっていたようです)。しかし己丑の日に雨が降ったため、埋葬を延期することになりました。
庚寅(二十七日)、日が出たため敬嬴を埋葬しました。
『春秋左氏伝(宣公八年)』は雨のために一日延期したことを「礼にかなっている」と評価していますが、『春秋穀梁伝(宣公八年)』は「埋葬の日が決まったら、雨が降っても中止してはならない」と書いています。
 
『春秋左氏伝』は埋葬の日の決め方を簡単に説明しています。
埋葬の日は卜によって選ばれました。遠い日から卜っていきます。例えばまず翌月の下旬を卜い、相応しい日がなければ中旬を卜い、それでも見つからなければ上旬を卜うという方法です。この方法によって「死者を急いで埋葬するつもりはない」という孝子の気持ちが表されます。
 
[] 魯が平陽に築城しました。
 
 
 
次回に続きます。