春秋時代100 東周定王(五) 陳の頽廃 前601年(2)

今回は東周定王六年の続きです。
 
[] 陳と晋が講和しました。
そのため楚が陳を討伐しました。
陳は楚と講和し、楚は兵を還しました。
 
資治通鑑外紀』には「冬、楚が鄭を伐つ」とありますが、鄭は陳の誤りではないかと思われます。
『春秋左氏伝(宣公八年)』『資治通鑑前編』および『史記』の『楚世家』『鄭世家』『十二諸侯年表』とも、楚が鄭を攻撃したという記述はありません。
 
[十一] 『資治通鑑外紀』は『国語・周語中』を元に陳国の状況を紹介しています。
定王は卿士・単襄公(単は食邑名。襄公は諡号。名は朝なので、単朝ともいいます)を宋に送って聘問させました。その後、楚を聘問するため陳に道を借ります。当時、周王の権威が失墜していたため、天子の使者も諸侯の道を通る時は正式に許可を求める必要があったようです。
朝、東方に火星(商星。二十八宿の心星)が見えました(夏暦十月という意味です)。陳の道は雑草が生い茂っているため通行が不便で、候人(賓客の対応をする官)は辺境に現れず、司空(道を管理する官)は道を巡視せず、湖沢には堤防がなく、河川には橋がなく、野に食糧が放置され、穀物を蓄える場所は修築されず、道には列樹(並木)がなく、農地の作物はまばらで、饍宰膳夫。賓客の食事を担当する者)は食物を提供せず、司里里宰。客館を管理する者)は宿の準備をせず、国内には寄寓(旅人が住む施設)がなく、県(郊外)には施舍(旅人が休憩する施設)がありません。しかし陳国の民は夏氏の家(陳の大夫の家。美女・夏姫が住んでおり、陳霊公が通っていました)に楼台を建てるため、駆り出されることになっていました。陳霊公と孔寧、儀行父の三人は南冠(楚国で流行っていた冠)を被り、夏姫の家で遊興して、賓客(単襄公)に会おうともしませんでした。
 
帰国した単襄公が定王に言いました「陳侯自身が大咎(死)を招かないとしても、その国は必ず亡びます。」
定王がその理由を問うと、単襄公はこう言いました「朝、辰角(角星。二十八宿のひとつ)が東方に見えたら雨が少なくなり、天根(星の名)が見えたら水が乾き、本(蒼龍七宿の氐宿)が見えたら草木が枯れ、駟(蒼龍七宿の房星)が見えたら霜が降り、火(商星)が見えたら寒風が吹くので、人々に防寒の準備をさせるものです。だから先王の教えには『雨が降らなくなったら道を直し、水が涸れたら橋を完成させ、草木が朽ちたら食糧を蓄え、霜が降ったら冬服を準備し、清風(寒風)が吹いたら城郭や宮室(家屋)を修築する』とあるのです。『夏令夏王朝の暦に合わせた政令』は『九月に道を直し、十月に橋を架ける』といっており、度々、人々にこう諭しています『農事が終わったら土を盛る工具を準備せよ。營室(定星)が南の中天に見える頃(夏暦十月)、土木(建築)が開始される。火(商星)が始めて見えたら、司里の所に参集せよ。』このような教えによって、先王は財を用いることなく、広く天下の人々に徳を施すことができたのです。今、陳国は朝に火を見ることができる季節になったのに、道路は雑草で覆われ、田野の穀物を管理する者はなく、湖沢には堤防が造られず、河川には舟も橋もありません。これは先王の教えを廃することです。
また、周制にはこうあります『列樹を設けて道を示し、飲食を提供する宿)を建てて道を守る(廬は十里ごとに建てられ、距離を示すのと同時に、変事があったら国に報告をする拠点になりました)。国の郊外には放牧の地があり、国境には寓望(旅舎と賓客の対応をする候人。候望ともいいます)を設け、藪(水がない沢)には圃草(豊富な草)を茂らせ、囿(宛。貴族が狩猟を行う場所)には林と池を確保することで、災(飢饉や戦争)の備えとする。それ以外の地は全て穀土(農地)となり、民には使わない農具がなく、田野に雑草が茂ることもない。政令が農事に影響することなく、民の労力が無駄になることもない。こうすれば生活は豊かかつ安逸になり、国(城内)の人々はそれぞれの職責が定められ、県(郊外)の人々も秩序に従って労働できる。』今、陳国は道路がどこにあるかを知ることもできず、田は草に埋もれ、作物が実っても収穫する者がなく、民は国君の逸楽のために疲労しています。これは先王の法制を棄てたことになります。
周の『秩官(官職について説明した書)』にはこう書かれています『対等な国の賓客が訪れたら、関尹(司関。関門を管理する官)は朝廷に報告し、行理(賓客を出迎える官吏。賓客の対応をする行人の部下で、小行人ともいいます)瑞節を持って迎え入れ、候人が道を案内し、卿は郊外まで出て労い、門尹(司門)は門庭を掃除し、宗祝宗伯と太祝。宗伯は六卿の一つで祭祀を掌る官。太祝はその部下)は祭祀の礼を行い(賓客と共に宗廟に報告し)司里は賓館を準備し、司徒は徒役(道を修築する工人)を手配し、司空は道を視察し、司寇は姦盗の者を捕まえ、虞人(山沢を管理する官)は木材器物(賓客が祭祀等で使う物)を提供し、甸人(甸師。柴薪を管理する官)は柴や薪を集め、火師司火)は夜間の灯火を準備し、水師は水を管理し、膳宰は料理を作り、廩人穀物を担当する官吏)は米を提供し、司馬(ここでは圉人の意味。養馬を担当する官吏)は馬に餌を与え、工人(工匠)は車を検査し、百官はそれぞれの職責に応じて賓客に対応する。こうすることで、賓客は他国に入っても自分の家に帰ったように感じ、大小(主賓と従者)とも満足できる。貴国(大国)の賓客が来た場合は、規格を一等級高くして、恭敬を加えなければならない。王吏(王の使者)が訪問した時は、各官の正(長)が賓客に臨み、上卿が監督する。王の巡守に対しては、国君が自ら監督しなければならない。』臣は不才ですが、周の分族(王族の一人)には違いありません。王命を受けて賓客として陳を通ったのに、関係する官員が応対しませんでした。これは先王が定めた官制を貶めることになります。
先王の令(武王の訓令。但し、原典は周武王の言葉ではなく、『尚書・湯誥』)にはこうあります『天道は善を賞し、淫を罰する。よって、わしが造る国周王朝と封国諸侯)は、常道に背いてはならず、怠惰淫縦に従ってはならず、各自が職責を遵守し、天の福を享受せよ。』今、陳侯は祖先から継承された常道を守らず、自分の夫人や妃嬪を棄て、卿佐(孔寧と儀行父)を率いて夏氏と淫しています。これは姓を汚すことになります(夏姫の亡夫は御叔といい、陳の公族なので霊公と同じ嬀姓です。霊公が臣下を連れて夏姫と淫蕩を行えば、御叔を辱めたことになり、自分の姓を汚したことになります)。陳は我が大姫の後裔です(大姫は周武王の娘。太姫。陳の祖・胡公の妃)。それなのに袞冕(周の礼服)を棄て、南冠を被って外出しています。これは正常な礼制を軽んじることであり、先王の政令にも背いています
かつては先王の教えに対して真剣にその徳に従おうと努めても、まだ足りないのではないかと恐れたものです。その教えを廃し、その法制を棄て、その官制を軽視し、その政令に背いて、国を守ることができるでしょうか。大国(晋・楚)の間にいながらこの四者教・制・官・令)がなかったら、久しく存続することはできません。
この年、単襄公は楚を聘問しました。
 
二年後、陳霊公は夏氏の家で殺され、その翌年に楚が陳に進攻します。