春秋時代103 東周定王(八) 楚の陳討伐 前598年

今回は東周定王九年です。
 
定王九年
598年 癸亥
 
[] 春、楚荘王が鄭を討伐して櫟に至りました。
 
鄭の子良(公子・去疾)が言いました「晋も楚も徳を修めず兵を用いて争っている。我々は来た者と結べばいい。晋も楚も信がない。我々に信がなくても当然なことだ。」
鄭は楚に服しました。
 
夏、楚子(荘王)が辰陵(または「夷陵」)で陳侯、鄭伯(襄公)と会盟しました。
この時の陳侯は恐らく夏徴舒です。

史記・鄭世家』はこの年にと晋が鄢陵で盟したと書いていますが、誤りではないかと思われます。 

[] 魯の公孫帰父が斉と共に莒を攻めました。
 
[] 楚の左尹・子重(荘王の弟。嬰斉)が宋を侵しました。楚荘王は後援として(陳・宋・鄭の附近。詳細位置不明)で待機しました
 
[] 楚の令尹・蔿艾獵(孫叔敖。または孫叔敖の兄)が沂(楚邑)に築城を命じられました。
艾獵は封人(城郭建築を掌る官)を派遣して工程の計画を立てます。土台となる場所を確認し、作業の日程や必要な資材・労力を計算し、食糧を準備し、各工程に相応しい人材を選びました。封人が計画内容を司徒(封人の上司)に報告し、役夫が動員されて工事が開始します。
三十日後、計画通りに作業が進み、滞ることなく城が完成しました。
 
[] 晋の郤缺(郤成子。冀缺)が衆狄(白狄の一種)との講和を望みました。衆狄は赤狄から要求される労役に苦しんでいたため、晋に帰順します。
秋、晋景公が欑函(狄地)に入って狄の主を会見しました。
 
景公が出発する前に、諸大夫は狄の主を呼び出そうとしました。しかし郤缺はこう言いました「徳がない者は勤労でなければならないという。勤労を棄てて人に何かを要求することができるか。我々が自ら彼等の地に行くべきだ。『詩経(周頌・賚)』に『文王は勤を成した(文王既勤止)』とある。文王でも勤労だったのだ。徳の少ない我々ならなおさらではないか。」
 
[] 冬十月、楚荘王が陳を討伐しました。名分は陳で起きた夏氏の乱を平定するためです。しかし楚はこの年の夏に陳とも会盟しています。この時の陳侯は夏徴舒はずなので、この会盟で夏徴舒と楚荘王の間に何かがあったのかもしれません。
 
呂氏春秋・似順論』に出兵前の楚の様子が描かれています。
楚荘王はまず人を送って陳を偵察させました。斥候が還って言いました「陳を攻撃するべきではありません。」
荘王がその理由を問うと、斥候は「陳は城壁が高く、濠が深く、蓄えも豊富です」と答えました。
すると寧国が言いました「陳を討つべきです。陳は小国なのに、蓄えが豊富なのは、税が重く民を搾取しているからです。民は上を怨んでいるでしょう。城壁が高く濠が深ければ、民力は疲弊しています。兵を起こして討伐すれば、必ず陳をとることができます。」
荘王は同意しました。
 
以下、『春秋左氏伝(宣公十二年)』の記述です。
楚荘王は陳に近づくと、陳人に「驚くことはない。少西氏を討つだけだ」と宣言しました。
少西というのは夏徴舒の祖父の名で、字は子夏といいます。少西の父は陳宣公です(『世本(夏氏)』)。少西の子は御叔で、御叔が夏姫を娶って夏徴舒が産まれました。ここで楚荘王がいう「少西氏」は夏徴舒を指します。
 
丁亥(十一日)、楚荘王が陳に入って夏徴舒を殺し、死体を栗門(城門)に晒しました。
楚は陳を自国の県に編入します。
 
当時、楚の大夫・申叔時が使者として斉を訪ねており、楚が陳を滅ぼした頃、帰国しました。申叔時は荘王に服命すると、すぐ退出します。荘王が人を送って譴責し、こう伝えました「夏徴舒は無道であり、その君を弑した。よって寡人は諸侯(楚の属国)を率いて討伐し、これを誅殺した。諸侯も県公(県尹)も皆、寡人を祝賀しているのに、汝だけは祝賀する気がないのか。」
申叔時が「祝賀しない理由を話すことが許されますか」と問うと、荘王は「許す」と言いました。
そこで申叔時はこう言いました「夏徴舒がその君を殺した罪は大きく、それを討って誅殺したのは主君の義によるものです。しかし人々はこう言っています『ある人が牛を牽いて他人の田を踏み荒らしてしまった。そこで田の主は制裁として牛を奪った。牛を牽いて人の田を荒らすのは確かに罪だ。しかしそれを理由に牛を奪うのは、罰が重すぎるだろう。』諸侯が王に従ったのは罪ある者を討つためだったからです。しかし王が陳を自国の県にしたのは、富を貪るためです。討伐を名義にして諸侯を集めながら、貪婪によって終了したら、天下に号令することができなくなります。」
荘王が言いました「わしにこのような諫言をする者は今までいなかった。占領した地を返せばいいだろうか。」
申叔時が言いました「我々小人は『他人の懐から奪った物を取り出して返す』とよく言うものです(奪った物を還すべきです)。」
荘王は陳を復国させました。晋に亡命していた陳霊公の太子・午が即位します。これを成公といいます。
公孫寧(孔寧)と儀行父も陳に戻されました。
 
後に孔子は荘王を称えて「賢人である。千乗の国(諸侯の国。ここでは陳の地)を軽んじ、一言(申叔時の進言)を重んじることができた」と評価しました。
 
荘王は陳の郷ごとに一人を選んで楚に還り、武功を示すために夏州を置いて、連れて還った陳人を住ませました。
 
乱の原因となった夏姫も捕えられ、楚に連れていかれました。
 
資治通鑑外紀』はここで『国語』『韓非子』『淮南子』『説苑』から楚荘王や申叔時、太子等に関する故事を引用していますが、長くなるので別の場所で紹介します。

春秋時代 楚荘王




次回に続きます。

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