春秋時代110 東周定王(十五) 士会の入朝 前593年

今回は東周定王十四年です。
 
定王十四年
593年 戊辰
 
[] 春正月、晋の士会が軍を率いて赤狄の甲氏、留吁、鐸辰を滅ぼしました。
 
資治通鑑外紀』はここで趙荘子(趙朔)と狄(翟)の話を紹介しています。この元になる話は『説苑・辨物(巻十八)』に記載されています。但し、『説苑』は趙荘子ではなく趙簡子(趙鞅。約百年後に晋で政権を握ります)の時代のこととしています。
以下、時代が合いませんが、『説苑』の内容を紹介します。
趙簡子が翟封荼(恐らく翟の人名。『資治通鑑外紀』では狄の封人。封人は国境を管理する官)に問いました「翟で三日間、穀物(『資治通鑑外紀』では「沙」)の雨が降ったと聞いたが、汝は信じるか?」
翟封荼が答えました「信じます。」
趙簡子が聞きました「三日間、血の雨が降ったと聞いたが、信じるか?」
翟封荼が答えました「信じます。」
趙簡子が聞きました「馬が牛を生み、牛が馬を生んだというが、信じるか?」
翟封荼が答えました「信じます。」
趙簡子が言いました「すごいことだ。妖異でも国を滅ぼすことができるのか。」
すると翟封荼が言いました「穀物の雨が三日間降ったのは、虻風(疾風。強風)穀物が飛ばされたからです。血の雨が三日間降ったのは、鷙鳥(鷹等の強暴な鳥)が上空で戦ったからです。馬が牛を生み、牛が馬を生んだのは、牛馬を一緒に放牧したからです(原文は「雑牧」です。牛馬が交配したとも理解できそうですが、恐らく産まれたばかりの牛馬が混ざったという意味だと思います)。これらは翟の妖ではありません。」
趙簡子が改めて聞きました「それでは、翟の妖とは何だ?」
翟封荼が答えました「国が何度も分散し、国君が幼弱で、諸卿は大夫の賄賂を好み、群臣は禄爵のために徒党を組み、百官は勝手な振る舞いをしているのに訴える者が無く、政令は原則が無く頻繁に変わり、士人は巧妙・貪婪で心が狭い、これが本当の妖です。」
 
[] 三月、晋が狄の俘(捕虜)を周王室に献上しました。
晋景公は周定王に士会を正卿に任命することを請いました。
戊申(二十七日)、士会は黻冕(卿大夫の礼服)が与えられ、中軍の将に任命され、大傅を兼任することになりました。
 
この頃、晋の盗賊が秦に逃げました。羊舌職が言いました「禹が善人を用いたら、不善の者が遠ざかったという。我が国も同じ状況だ。『詩経(小雅・小旻)』に『戦戦兢兢とすること、深淵に臨み、また、薄氷を踏んでいるようだ(戦戦兢兢,如臨深淵,如履薄冰)』とある。善人が上にいれば、民は皆、慎重になり、幸運を求める者(運に頼り、見つからないと思って悪事を働く者)はいなくなる。諺に『民が幸運を多く望めば、国は不幸になる(民之多幸,国之不幸也)』とあるが、これは上に善人がいないからである。」
 
[] 夏、成周洛邑の宣榭(矢を習い、武を講義する堂)で火災がありました。
『春秋』経文には「成周宣榭」と書かれています。人為的な火災は「火」と書き、天が降した火災は「災」と書くというきまりがあったようです。例えば東周襄王十三年(前640年)に魯の西宮で火災があった時は、「西宮災」と書かれています(『春秋・僖公二十年』)
 
[] 秋、郯伯姫(郯国に嫁いだ伯姫)が魯に帰りました。離縁されたようです。
 
[] 周王室が毛氏と召氏の難(前年)のため混乱しました。両氏が王孫蘇を襲おうとしたため、王孫蘇は晋に奔ります。晋は王孫蘇を周に入れて官位を戻させました。
 
冬、晋景公が士会(随会。武子。武季)を周に送って王室の乱を平定させました。周定王が士会をもてなし、原襄公(大夫)が相礼(宴席で王を補佐する役)になります。
宴が始まり、「殽烝」が出されました。殽烝とは宴席で出される料理の種類です。殺した牛の全身を俎に乗せたものを「全烝」といい、天を祭る祭祀に用いました。牛の半身を乗せたものは「房烝」、または「体薦」といい、天子が諸侯をもてなす時の宴に用いました。牛を切り、肉がついたままの骨を俎に乗せたものを「殽烝」、または「折俎」といい、天子が諸侯の卿をもてなす時の宴に用いました。
士会が原襄公に「殽烝」の意味を問うと、定王にそれが聞こえたため、士会を召して自ら説明しました「季氏よ、聴いたことがないのか。王の享(諸侯との宴)では『体薦』を用い、宴(親しい者との宴)では『折俎』を用いるものだ。公(諸侯)は享でもてなし、卿は宴でもてなすのが、王室の礼である。」
周王室の儀礼に接した士会は、帰国すると典礼の研究に励み、晋国の法を整理しました。
 
以上は『春秋左氏伝(宣公十六年)』の記述です。『国語・周語中』には更に詳しく書かれています。
晋景公が随会を周に送って聘問させました。周定王は「餚烝殽烝)」で随会をもてなします。卿士・原公が相礼となりました。
随会(士会)が秘かに原公に聞きました「王室の礼では犠牲を切らないと聞いていました。これ餚烝)は何の礼でしょうか。」
定王に随会の声が聞こえたため、定王は原公を呼び、何を話したか問いました。原公は随会の質問を定王に伝えます。
定王は随会を召してこう言いました「汝は聞いたことがないか。禘郊(天を祭る儀式)では全烝を使い、王公の立飫(天子と諸侯の宴。立ったまま宴が行われました。坐って開く宴は「晏」といいます)では房烝を使い、親戚を招いた宴では餚烝を使うものだ。汝は余にとって他人ではなく、叔父(晋侯)が汝を派遣したのは旧徳(友好関係)を修めて王室を補佐するためだ。だから先王の宴礼によって汝をもてなすのだ。余一人が汝のために飫や禘の礼を用いるわけにはいかない。それらは親しい者をもてなす礼ではなく、前例もないからだ。但し、戎狄が相手の時は体薦(房烝)を使うことができる。戎狄は礼がなく軽率で、しかも貪婪なうえ譲ることを知らないからだ。彼等は血気を治めることなく(礼義を知らず野蛮で)、禽獣と同じだ。だから彼等が貢納に来たら、精緻な美食を必要とせず、諸門の外に坐らせて、舌人(通訳官)に命じて体薦を与えるのだ。
王室の一二の兄弟(晋国等、少数の親密な同姓諸侯)は定期的に朝見している。よって、典礼に則って応対することで、民に訓則を示すのである。柔嘉(柔らかい肉)や馨香(香りがいい調味料)を選び、各種の美酒を造り、多数の籩(果物等が入れてある竹の器)を並べ、簠簋穀物を盛った皿)を準備し、犧・象・樽・彝(全て酒器)や鼎・俎を置き、清潔な布でそれらを覆い、恭しく清掃して宴席を清め、犠牲を切り、飲食の準備が整ったら、折俎(餚烝)で賓客をもてなし、酒を加え、礼物を贈ることで、合好(友好)を示すことができるのである。戎狄をもてなすように孑然(切られていない犠牲)を使うことはできない。
王公諸侯の立飫は、軍事や大事が成功して大徳(大功)を建てた時に、朝廷が大物(大器。度量)を明らかにするためにある。立飫は立ったまま宴を終わらせるので、実際には儀礼に則って準備された物房烝)を賓客に示すだけだ。飫とは物を出すだけの形式的なものであり、宴(坐って行う宴。餚烝)こそが合好(友好)のための席である(祭祀で使う全烝と立飫で使う房烝は、実際には食べなかったようです)。このような決まりに則っているから、一年に一回の飫を厭うことなく、季節ごとの宴が多すぎることもなく、毎月の会計も、毎旬の実務も、毎日やるべきことも、影響を受けることがない。服物(衣服や旗等の等級を表す物)は庸(功績)を明らかにし、采飾(服や旗、車等の装飾)は明徳を明らかにし、文章(模様)は物象を模し(礼服に描かれた模様が等級を表しました)、周旋(主人と賓客の関係)には秩序があり、主人と賓客の容貌(姿)儀礼によって修飾され、威儀には準則があり、五味(酸・甘・苦・辛・鹹)は気をみなぎらせ、五色(青・黄・赤・白・黒。正色といいます)は心を正しくさせ、五声(古代の五つの音階)は徳を明らかにさせ、五義父義・母慈・兄友・弟恭・子孝)は適切な行動の綱紀となり、飲食は饗宴の規格を示し、和同(和睦同心)から主人と賓客の徳義をうかがい知り、礼物によってますます関係を深め、礼の決まりに従うことで徳を建てることができる。古に善礼があるのに、場違いの全烝を使って礼をこわすことはできない。」
随会は答えることができませんでした。
 
帰国後、随会は三代(夏・商・周)典礼を学び、晋霊公以来廃れていた晋国の法(晋文公が造った執秩の法等)を改訂しました。
 
[] 魯が大豊作(大有年)でした。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代111 東周定王(十六) 郤克と䔥同叔子 前592年