春秋時代118 東周定王(二十三) 呉国登場 前587~586年

今回で東周定王の時代が終わります。
 
定王二十年
587年 甲戍
 
[] 春、宋の華元が魯を聘問しました。宋共公が二年前に即位したばかりなので、魯との関係を厚くすることが目的です。
 
[] 三月壬申(楊伯峻『春秋左伝注』によるとこの年三月に壬申の日はないので、恐らく二月壬申の誤りで、二月二十五日)、鄭襄公が在位十八年で死に、子の悼公・沸(または「弗」「費」)が立ちました。
 
[] 杞伯桓公が魯に来朝しました。叔姫(杞桓公に嫁いだ魯公の娘)を魯に帰らせるためです。翌年に続きます。
 
[] 夏四月甲寅(初八日)、魯の臧孫許が死にました。
 
[] 魯成公が晋に行きましたが、晋景公が魯成公に会った時の態度が不敬でした。
魯の季孫行父(季文子)が言いました「晋侯は禍から逃れることができない。『詩経(周頌・敬之)』に『恭敬でありなさい。天は全てを照らしている。天命を得てそれを守るのは難しい(敬之敬之!天惟顕思,命不易哉!)』とある。晋侯の命は諸侯にある(覇者としての晋の地位・命運は、諸侯が従うか背くかによって大きく変わる)。不敬であっていいはずがない。」
 
[] 鄭が襄公を埋葬しました。
 
[] 秋、魯成公が晋から帰国しました。魯は楚と結んで晋に離反することを考えます。
しかし季孫行父が反対して言いました「晋は無道ですが、叛すべきではありません。晋は国が大きく、臣が睦み、我々に近く、諸侯もその命を聴いているので、我々が二心を持ってはなりません。史佚西周の史官)の『志(佚書)』にこうあります『同じ族類でなければ、その心も異なる(非我族類,其心必異)。』楚は大国ですが、同族ではないので、我々を尊重するはずがありません。」
成公はあきらめました。
 
[] 冬、魯が鄆(西鄆)に築城しました。
 
[] 十一月、鄭の公孫申(叔申)が軍を率いて許国から奪った地に国境を定めました。
許が反撃して展陂で鄭軍を破ったため、鄭伯(悼公)が許を攻め、鉏任と泠敦の地を奪いました。
 
晋の欒書が中軍の将に、荀首が佐に、士燮が上軍の佐になり、許を援けて鄭を攻めました。
晋軍は汜と祭の地を取ります。
 
楚の子反が鄭を援けると、鄭伯(悼公)と許男(霊公)がそれぞれの言い分を子反に訴えました。鄭の皇戌が悼公に代わって証言します。子反は判決できず、こう言いました「二君が寡君(楚共王)を尋ねれば、寡君と二三臣(臣下)が共に両君の欲するところを聞き、正否を判断するだろう。側(子反の名)には二国の正否を判断することができない。」
この事件は翌年に続きます。
 
[] この年、燕宣公が在位十五年で死に、昭公が立ちました。
 
 
 
定王二十一年
586年 乙亥
 
[] 春正月、杞叔姫(杞の桓公夫人)が魯に帰されました
 
[] この頃、晋の趙嬰(趙嬰斉。趙衰の子)と趙荘姫(趙朔の妻。晋成公の娘。荘は趙朔の諡号。この時、趙朔は既に死んでいます。趙朔の父は趙盾で、趙盾の父が趙衰になります)が姦通しました。
 
春、趙同(原同)と趙括(屏括。二人とも趙衰の子。趙盾の弟で、趙嬰の兄)が趙嬰を斉に放逐しました。
趙嬰は「私がいるから欒氏が乱を起こさないのです。私が亡命したら、二人の兄に憂いが生まれるでしょう。また、人にはそれぞれできることとできないことがあります(私は礼を守ることはできませんでしたが、趙氏を守ることはできます)。私を赦すことは害にならないでしょう」と言いましたが、趙同も趙括も同意しませんでした。
 
これ以前に趙嬰は夢で天使に会い、こう言われました「私を祭るなら、汝に福を与えよう。」
趙嬰が士貞伯(士渥濁。士貞子)に人を送って意見を求めると、士貞伯は「わかりません」と答えました。
しかし後に士貞伯は知人にこう言いました「神は仁の人に福を与え、淫の人に禍を与える。淫でありながら罰がないのは既に福である。祭りを行ったからといって、それ以上の福を得ることはない(逆に罰を受けるだろう)。」
趙嬰は天使を祭り、その翌日に亡命することになりました。
 
[] 魯の仲孫蔑(孟献子)が宋に行きました。昨年、宋の華元が魯に朝見した答礼です。
 
[] 夏、晋の荀首(または「荀秀」)が斉に行き、斉女を迎えました。
魯の叔孫僑如(宣伯)が荀首に食糧を送り、穀(斉地)で会見しました。
 
[] 晋都・絳附近の梁山が崩れました。
晋景公が伝車(駅車)で大夫・伯宗(字は尊。伯尊)を召しました。
伯宗は景公に謁見するため宮城に向かいましたが、途中で重車(貨物を運ぶ大車。人が牽きます)に遭遇しました。伯宗が「伝車が通る!道を開けよ!」と命じると、重人(重車を牽く人)はこう言いました「伝車とは速度を大切にするものです。私が道を開くのを待っていたら遅くなります。小道を通った方が速いでしょう。」
伯宗は賢人に出会ったことを喜び、重人にどこの人か問いました。重人は「絳人です」と答えます。そこで伯宗は絳の状況を聞きました。
重人が答えました「梁山が崩れたので、伯宗を召して相談するようです(重人は伯宗を知りません)。」
伯宗が問いました「どうすればいいだろうか?」
重人が答えました「山の土壌が朽ちたので崩れただけのことです。どうすることができるというのですか(楊伯峻『春秋左伝注』は、「当時の人々は災害を天や鬼神がもたらすものと考えてたが、この重人は自然現象ととらえていたため、身分は低いのに有識者だった」と評価しています)。国は山川を主とします。山が崩れ川が涸れたら、国君は不挙(食事を減らすこと)、降服(素服を着ること)、乗縵(装飾のない車に乗ること)、徹楽(音楽を中止すること)、出次(宮殿の寝宮から離れて暮らすこと)、祝幣(神に礼物を捧げること)を行うものです。また、史(太史)が祭文を読んで山川の祈祷をし、国を挙げて三日間哭すのが礼です。ただこうするだけのことです。伯宗でも他にどうすることもできないでしょう。」
伯宗は重人に名を聞きましたが、重人は教えませんでした。そこで、重人を連れて景公に会おうとしましたが、重人は拒否します。
伯宗は景公に謁見すると重人の言葉を報告しました。景公は重人の言葉に全て従いました。
 
以上は『春秋左氏伝(成公五年)』の記述です。『春秋穀梁伝(成公五年)』を見ると、伯宗は輦者(車を牽く人)の言葉を自分の意見として景公に伝え、功を盗んだと非難しています。
 
[] 許霊公が鄭を訴えるために楚に行きました(前年参照)
六月、鄭悼公も楚に入り、許を訴えます。しかし鄭が負けて皇戌と子国(鄭穆公の子。公子・発)が楚に捕えられました。

以上は『春秋左氏伝(成公五年)』の記述です。『史記・鄭世家』は、鄭悼公を楚に送って弁明したが、鄭の訴えに理がなく、を捕えた。そこで鄭悼公は晋と和平し、関係を改善させたは秘かに子反と交流し、子反のとりなしで帰国できた」としています。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
帰国した鄭悼公は、公子・偃を晋に送って講和を請いました。
 
秋八月、鄭伯(悼公)と晋の趙同が垂棘(晋地)で盟を結びました。
 
[] 宋の公子・囲亀(字は子霊)が人質として楚にいましたが、帰国しました。華元が囲亀をもてなします。
華元は東周定王十三年(594)に人質として楚に入りましたが、暫くして帰国しました。囲亀と交代したのかもしれません。
囲亀は華元を怨んでいたようです。華元の屋敷の門を出入りする時、太鼓を敲き、喚声を上げさせて、「華氏の攻撃を練習しているのだ」と言いました。
宋共公は囲亀を殺しました。
 
[] この秋、魯で大水(洪水)がありました。
 
[] 冬十一月己酉(十二日)、周定王が死に、子の簡王・夷が立ちました。
 
[] 十二月己丑(二十三日)、晋侯(景公)・魯公(成公)・斉侯(頃公)・宋公(共公)・衛侯(定公)・鄭伯(悼公)・曹伯(宣公)・邾子・杞伯桓公が蟲牢(鄭地)で盟を結びました。鄭が晋に帰順したためです。
諸侯が次の会盟について相談しましたが、宋共公は向為人(向が氏。恐らく宋桓公の子孫)を派遣し、子霊の難(囲亀が華元殺害を企んで処刑された事件)を理由に次の会の参加を辞退しました。
 
[十一] 『資治通鑑外紀』ではここで呉国が登場します。『史記・呉太伯世家』の記述が元になっています。
周王朝建国前、周の太王・亶父に太伯、仲雍、季歴という子が産まれました。中でも季歴は賢人で、その子・昌も優秀だったため、太王は季歴と昌に位を譲ろうと考えました。
それを知った太伯と仲雍は荊蛮の地に移住し、弟の季歴に位を譲りました。後に季歴は王季とよばれ、昌は文王となります。
太伯は荊蛮の地で「句呉」と号しました。荊蛮の人々は太伯の義心を称賛し、千余家が帰順しました
 
太伯の死後、子がいなかったため弟の仲雍が継ぎました。これを呉仲雍といいます。
仲雍の死後は子の季簡が立ち、季簡が死んで子の叔達が立ち、叔達が死んで子の周章が立ちました。この頃、西周武王が商を滅ぼします。
武王は太伯と仲雍の子孫を探し、周章を得ました。周章は既に呉を治めていたため、武王は周章を呉に封じました。爵位は子爵です。
また、周章の弟・虞仲を周の北の夏墟夏王朝の故地)に封じました。この国を虞といいます西周武王十二年参照)
こうして太伯の子孫は中原の虞と夷蛮の呉の二国を擁することになりました。
 
周章の死後、子の熊遂が立ち、熊遂が死んで子の柯相が立ち、柯相が死んで子の彊鳩夷が立ち、彊鳩夷が死んで子の餘橋疑吾が立ち、餘橋疑吾が死んで子の柯盧が立ち、柯盧が死んで子の周繇が立ち、周繇が死んで子の屈羽が立ち、屈羽が死んで子の夷吾が立ち、夷吾が死んで子の禽処が立ち、禽処が死んで子の転が立ち、転が死んで子の頗高が立ち、頗高が死んで子の句卑が立ちました。この頃、晋の献公が周北の虞を滅ぼし、虢を攻めて国土を拡大しました。
 
句卑が死んで子の去斉が立ち、去斉が死んで子の寿夢が立ちました。寿夢の時代、呉は興隆して王を称すようになります。
 
中原の虞が早く滅び、辺境の呉が大国に成長していきますが、四方を他国に囲まれた中原諸国よりも、開拓の空間を多く持つ辺境の方が発展しやすかったというのは、春秋戦国時代に強国となった晋・斉・楚・秦・越にも共通することです。
呉の振興によって中原の文化が中国東南部にも普及するようになりました。
 
呉は寿夢の時代からはっきりした年代記が始まります。翌年が呉寿夢元年になります。
寿夢は「孰姑」ともよばれます。一名を「乗」ともいいます。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代119 東周簡王(一) 晋の遷都 前585年