春秋時代120 東周簡王(二) 晋呉の国交 前584年
今回は東周簡王二年です。
簡王二年
前584年 丁丑
[一] 春正月、魯で鼷鼠(小さい鼠)が郊牛(郊祭の犠牲に使う牛)の角をかじったため、改めて祭祀で使う牛を卜いました。しかしその牛の角も鼷鼠にかじられたため、牛の卜いをあきらめました。
郯は講和して呉に服従しました
魯の季孫行父(季文子)が言いました「中国(中原諸国)が蛮夷に対して威を示さず、逆に蛮夷が中国を侵した。しかし誰もこれを心配しない。これは善君(立派な覇者)がいないからだ。『詩(小雅・節南山)』には『上天に善がなければ(上に立つ者が善でなければ)、乱が治まることはない(不弔昊天,乱靡有定)』とあるが、このことを言っているのだ。上が善ではないのに、誰が乱から逃れられるだろう。我々が滅ぶ日は近い。」
君子(知識人)は季孫行父を評価してこう言いました「このように恐れを抱いて警戒できるようなら、滅亡することはない。」
[四] 夏五月、曹宣公が魯に来朝しました。
[五] 魯が郊祭を行いませんでした。牛の角がかじられたためです。しかし三望は行いました。
東周襄王二十四年(前629年)と定王元年(前606年)にも、郊祭をせず、三望だけ行ったことがありました。当時の礼から外れたことでした。
[六] 秋、楚の公子・嬰斉(子重)が鄭を攻撃し、氾に駐軍しました。
晋景公、魯成公、斉頃公、宋共公、衛定公、曹宣公と莒子、邾子、杞桓公が鄭救援のために兵を出します。
鄭の共仲と侯羽が楚軍と対峙し、鄖公・鍾儀を捕えて晋に献上しました。
八月戊辰(十一日)、諸侯が馬陵で盟を結びました。莒が晋に服したことと、蟲牢の盟約(二年前)を再確認することが新たに盟を結んだ理由です。
晋は楚の捕虜・鍾儀を連れて還り、軍府(軍用倉庫)に監禁しました。
[七] 魯成公が馬陵の会から還りました。
[八] 楚が宋を包囲して帰服させた戦いで(東周定王十三年・前594年)、凱旋した楚の子重が申邑と呂邑を賞田(賞地)として求めました。
荘王は同意しましたが、申公・巫臣が反対して言いました「いけません。申と呂が公の邑であるから、兵賦(兵役と軍用物資)を得て北方を防ぐことができるのです。もし二邑を賞田にしたら、(北方の守りがなくなり)晋・鄭が漢水に至ることになります。」
荘王が巫臣の諫言に賛成したため、子重は巫臣を怨むようになりました。
かつて子反が陳から得た美女・夏姫を娶ろうとしましたが、これに反対した巫臣が夏姫を娶って出奔したため(東周定王十八年・前589年)、子反も巫臣を怨んでいました。
共王が即位すると、子重と子反は巫臣の一族にあたる子閻、子蕩と清尹(官名)・弗忌を殺しました。更に夏姫を娶ってから戦死した襄老の子・黒要(定王十八年・前589年)も殺されます。子重は子閻の家財を奪い、沈尹(沈県の尹)と王子罷に子蕩の家財を分けさせ、子反は黒要と弗忌の家財を奪いました。
巫臣は晋から子重と子反に書を送りました「汝等は姦悪貪婪によって主君に仕え、多くの不辜を殺した。余は必ず汝等を奔命によって疲労させ、死に至らしめよう。」
晋に仕えていた巫臣は使者として呉に行くことを望みました。晋景公は同意します。
呉の寿夢は巫臣の訪問を喜び、晋との国交が開かれました。巫臣は三十乗の兵車を率いて呉に入り、十五乗を呉に残しました。射手や御者を呉に送って兵車による戦い方を呉人に教え、楚と対抗させます。また、巫臣の子・狐庸を呉に留め、行人(外交官)にしました。
晋と結んで力をつけた呉は楚と対立し、巣や徐を攻撃します。子重は呉の進攻を防ぐために奔走することになりました。
この年、馬陵の会が開かれると、呉は州来(国名)を攻めました。
子重が慌てて鄭から救援に向かいます。
子重と子反は呉軍を防ぐために一年で七回奔走しました。楚に属す小国は次々に呉に占領されます。
呉はこの後ますます強大化し、中原諸国との往来が頻繁になりました。
[九] 冬、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
しかし衛定公が晋に来たため、晋は戚邑を衛に返還しました。
次回に続きます。
春秋時代121 東周簡王(三) 晋の趙武 前583年