春秋時代130 東周簡王(十二) 鄢陵の戦い(中) 前575年(2)

今回は東周簡王十一年の続きです。
 
[十一] 六月甲午晦(二十九日)、楚が早朝から晋軍に接近して陣を構え始めました。東夷の兵を率いています。
晋の軍吏(将士)が憂いてどう対応するか話しあいました。
すると、公族大夫の士(范。士燮の子)が小走りで進み出ました。小走りになるのは身分が高い人に対する礼儀です。が諸将に言いました「井戸を埋め、竃を平らにして、軍中に陣を布き、列の間に距離をとりましょう(井戸と竃を破壊して営内に陣を構えるというのは、飲食を棄てた決死の覚悟を示すことになります)。晋も楚も天に与えられた国です(対等の立場です)。恐れることはありません。(こちらが決死の姿を見せれば)楚は退くしかないでしょう。」
士燮が咄嗟に戈を持ってを追い払い、「国の存亡は天にかかっている。童子が何を知っているというのだ。しかも汝に意見を求めていないのに、汝は勝手に発言した。これは(干犯。干渉)というものだ。死罪に値する!」と言いました。
この様子を見て、苗賁皇(楚の子越椒の子。東周定王二年・前605年に若敖氏が滅ぼされた時、晋に出奔して苗邑を与えられました)が言いました「士燮は災難からうまく逃れることができるだろう。」
 
楚の陣が完成する前に、晋厲公が使者を送って欒書に攻撃を命じました。
しかし欒書はこう言いました「楚師は軽佻なので、我々が営塁を固めて待機すれば、三日で退却するだろう。敵が退くところを撃てば、勝利は間違いない。」
これに対して郤至が言いました「楚には六つの欠陥があります。それを逃してはなりません。楚の二卿(子反と子重)は憎み合い、王卒(楚王の兵)は旧家から選んだ老衰の者が多く、鄭の陣は整っておらず、蛮軍は陣を構えることもなく、陣を構えるのに晦を避けず(この日は六月晦です。古代は月の末日に陣を構えることを不吉としました)、陣内は騒がしく(規律がない)、複数の陣が集結してますます喧騒を増しています。各軍は後ろを顧み(楚・鄭・蛮各軍がそれぞれ別の軍を頼りとし)、闘志がありません。旧家の子弟には良兵がなく、天忌(晦に陣を構えること)も犯しているので、攻撃すれば我が軍が必ず勝てます。」
 
以上、欒書と郤至の言葉は『春秋左氏伝(成公十六年)』を元にしました。『国語・晋語六』は少し異なります。
欒書が言いました「主君は黶(欒黶)等に斉・魯の出兵を要求させている。援軍を待とう。」
郤至が言いました「いけません。楚師はすぐに退却するつもりです。(敵には闘志がないので)今、我が軍が攻撃すれば、必ず勝てます。楚は忌晦日を避けずに布陣しています。これは一つ目の欠点です。南夷(南方の夷人)は楚と共に来ましたが、戦う気がありません。これは二つ目の欠点です。楚と鄭は陣を構えましたが整っていません。これは三つ目の欠点です。その士卒は陣中で騒いでいます。これは四つ目の欠点です。兵衆は騒々しい声に怯えるものです。これは五つ目の欠点です。そして、鄭は楚に頼り、楚は夷に頼っており、闘志がありません。我々はこの機会を失ってはなりません。」
厲公は郤至の意見に喜び、攻撃を命じました。
その結果、鄢陵で晋軍が大勝しましたが、欒書は郤至を憎むようになりました
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
楚共王が巣車(楼車)に登って晋軍を眺めました。子重が大宰・伯州犂(晋の伯宗の子。前年、楚に亡命しました)を共王の後ろに侍らせます。共王が言いました「晋陣の兵車が左右に走っているのはなぜだ。」
伯州犂が答えました「軍吏を召すためです。」
共王が聞きました「皆、軍中に集まったが、なぜだ。」
伯州犂が答えました「共に策謀を練るためです。」
共王が聞きました「帳幕が張られたのはなぜだ。」
伯州犂が答えました「先君の神主の前で卜をするためです。」
共王が聞きました「幕が除かれたが、なぜだ。」
伯州犂が答えました「命を発すためです。」
共王が聞きました「陣内が騒々しく、砂塵が舞い上がったが、なぜだ。」
伯州犂が答えました「井戸と埋め、竃を平らにして陣を布くためです。」
共王が言いました「皆、車に乗ったが、左右が武器を持って下りた(元帥の車は元帥が中央、御者が左に乗り、右には車右がいました。普通の車は中央に御者がおり、左に将、右に車右です。この時、車から下りたのは、普通の車の将と車右です)。」
伯州犂が言いました「宣誓を聞くためです。」
共王が聞きました「戦うつもりか?」
伯州犂が答えました「まだわかりません。」
共王が言いました「車に乗ったがまた左右が下りた。」
伯州犂が言いました「戦勝を鬼神に祈祷するためです。」
このように伯州犂は晋軍の動きを見るだけで状況を判断し、共王に伝えました。
 
一方、晋では苗賁皇が厲公の側に仕え、楚軍の状況を詳しく伝えました。
晋の諸将が言いました「楚には国士(伯州犂)がおり、その陣も厚いので、戦うべきではありません。」
苗賁皇が厲公にいました「楚の良(精鋭)は中軍の王族だけです。我が軍の良を分けて左右から攻撃し、その後、三軍(実際は四軍。全軍の意味)を集結して楚の王卒を撃てば、必ず大勝できます。」
厲公が筮で占うと、太史は「吉です。『復』の卦が出ました。その辞は『南国が緊迫し、その王を射て、目に中る(「南国●,射其元王,中厥目。」●は足の右に戚)』です。南国(楚)が緊迫し、王が負傷するのです。我が軍が負けることはありません。」
厲公は苗賁皇の言と占いを信じ、決戦を命じました。
 
晋軍営塁の前に沼があったため、晋兵は左右に分かれて沼を避けました。歩毅が晋厲公を御し、欒鍼が車右になります。
 
楚共王は彭名が御し、潘党が車右になりました。
鄭成公は石首が御し、唐苟が車右です。
 
欒書と士燮は族衆を率いて厲公を守りながら行軍しましたが、厲公の車が泥にはまって動けなくなりました。欒書が厲公を自分の車に乗せようとすると、欒鍼(厲公の車右)が言いました「書(欒鍼は欒書の子ですが、国君の前では親でも名を直接呼ぶことになっていました)は退いてください。国の大任(大事。戦争)を、あなたが全て一人で行うつもりですか。他者の職権を侵すことを冒といいます。自分の職責を失うことを慢といいます。自分の部隊から離れることを姦といいます。この三罪は、犯してはなりません。」
欒鍼は車から下りて厲公の兵車を沼から引き上げました。
 
 
 
次回に続きます。

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