春秋時代 郤至の入朝

東周簡王十一年(前575年)、鄢陵で楚に大勝した晋は、郤至を周に送って戦勝を報告しました。

本編は『春秋左氏伝』の内容を元にしました。

春秋時代132 東周簡王(十四) 叔孫僑如の亡命 前575年(4)

ここでは『国語・周語中』の記述を紹介します。



郤至が簡王に朝見する前に、王叔簡公(王叔陳生。王叔が氏)が酒宴を開いて郤至をもてなしました。双方が厚い礼物を贈りあい、酒を飲んで談笑します。

翌日、王叔子が朝廷で郤至を称賛しました。

 

郤至は卿士・邵桓公にも会って会話をしました。邵公はその内容を単襄公に語り、こう言いました「王叔子は温季(郤至)を褒めており、『彼は必ず晋国の相となる。晋国の相になったら、必ず大いに諸侯を得ることができる』と言っています。だから二三君子(周朝廷の公卿)に温季の善い評判を立てさせ、彼を上卿にすることで晋の援けを得ようとしています。

今回、夫子(郤至)が私に会いに来ました。彼は晋国の勝利を自分の策謀のおかげだとして、こう言いました『私がいなかったら、晋は戦わなかったでしょう。楚には五敗(五つの失敗の理由)がありましたが、晋はそれを利用する方法を知らず、私が強く勧めてやっと決戦を挑んだのです。楚は宋の盟(弭兵の盟)に背きました。これが一つ目です。徳が薄いのに、賄賂を贈って諸侯(鄭)を帰順させました。これが二つ目です。壮年の良将申叔時等)を用いず、幼弱司馬・子反等)を用いました。これが三つ目です。卿士を立てながらその言を用いませんでした子囊は晋と対立することに反対しました。東周簡王十年・前576年参照)。これが四つ目です。夷や鄭が楚に従いましたが、三軍の陣は整っていませんでした。これが五つ目です。今回の戦いの罪は、晋にはありません。晋は民心を得ており、四軍の帥(八卿。中軍の将・欒書と佐・士燮、上軍の将・郤錡と佐・荀偃、下軍の将・韓厥と佐・智罃、新軍の将・趙旃と佐・郤至)も士気が高く、卒伍(軍隊)は整い、諸侯の支持を受け、五勝(五つの勝利の理由)がありました。大義名分があったこと。これが一つめです。民心を得ていたこと。これが二つ目です。軍帥(将帥)が精悍だったこと。これが三つ目です。軍容が整然としていたこと。これが四つ目です。諸侯と和睦していたこと。これが五つ目です。このうちの一つでもあれば充分なのですから、五勝によって五敗を攻撃すれば、勝てないはずがありません。だから戦わないわけにはいかなかったのです。しかし欒氏(欒書)と范氏(士燮)が戦いに反対したため、私が強く勧めました。戦って勝ったのは私のおかげです。しかも彼等は戦闘において策謀がありませんでしたが、私には三伐(三つの功。勇・礼・仁)がありました。勇でありながら礼をもち、しかも仁を施したのです。私は三回、楚君の卒(兵)を駆逐しました。これは勇です。楚君を見たら車から降りて速足で移動しました。これは礼です。鄭伯を捕えることができたのにわざと逃がしました。これは仁です。私が晋国の政を主持するようになったら、楚・越も朝見しに来るでしょう。』

私が『あなたは賢人ですが、晋国の人事は序列を失ったことがありません。あなたに政権が及ぶことはないのではないでしょうか(郤至は八卿の最後にいます)』と問うと、彼はこう言いました『なにが序列ですか。先大夫の荀伯(荀林父)は下軍の佐から正卿になって政治を行い、趙宣子(趙盾。中軍の佐でした)は軍功がないのに政権を握り、今の欒伯(欒書)は下軍の将から正卿になりました。この三子の中で、私の能力が及ばない者はいません。新軍の佐から正卿になって政権を握ったとしても、おかしなことはありません。私は必ず目的を達成します。』

以上が温季の言葉です。あなた(単襄公)はどう思いますか?」

 

襄公が言いました「こういう言葉があります。『兵器が首に掛けられている(兵在其頸)。』これは郤至のことを言っているのでしょう。君子とは自分で自分を称賛しないものです。これは謙譲のためではありません。他の人を覆い隠すことを嫌うからです。人の性とは、自分よりも上にいる者を凌駕したくなるものです。しかし人の長所を覆い隠すことで上に行こうとしてはなりません。他の人の長所を覆って自分が上に行くことを目指したら、逆に排斥されてますます下に落とされるものです。だから聖人は譲ることを尊ぶのです。また、こういう諺もあります『獣は網を嫌い、民は上を嫌う(獣悪其網,民悪其上)。』『書逸書。あるいは『尚書・五子の歌』。但し『尚書』は「民可近,不可下」)』にはこうあります『民は近づけてもいいが、彼等を凌駕してはならない(民可近也,而不可上也)。』『詩経(大雅・旱麓)』にはこうあります『親しみやすい君子は、姦悪な手段で福を求めない(愷悌君子,求福不回)。』礼によれば、対等の相手には三讓(三回譲ること)するものです。だから聖人は民を凌駕してはならない(譲らなければならない)ことを知っており、天下の王となる者は、まず民心を求めるから自分の安全を得て、長く福を守ることができるのです。今、郤至は七人の下にいるのに上にいくことを望んでいます。これは七人を凌駕することになります。そこから七怨が生まれます。小醜(小人)の怨みを買うだけでも堪え難いのに、地位の高い諸卿の怨みを買ったら、どう対処できるのでしょう。

晋の勝利は天が楚を嫌ったからであり、晋を利用して楚に警告を与えたのです。しかし郤至は天の功を自分のものとしています。これは危険なことです。天の功を奪うことを不祥といいます。人を凌駕することを不義といいます。不祥は天に棄てられ、不義は民に背かれます。そもそも郤至は三伐の功があると言っていますが、彼の言う仁、礼、勇は民が行うことです。義によって死ぬことを本当の勇といい、義を奉じて準則を守ることを本当の礼といい、義を蓄えて大功を立てることを仁といいます。逆に、姦仁(姦悪な手段によって仁を示すこと)を佻(盗)といい、姦礼(姦悪な手段によって礼を示すこと)を羞といい、姦勇(姦悪な手段によって勇を示すこと)を賊といいます。戦とは敵を滅ぼすことを目的とし、戦わずに敵を服従させることを上策とします。だから制戎(軍を指揮する)には果毅(剛毅。豪勇果敢)を必要とし、制朝(政治を行う)には序成(身分の秩序)を必要とするのです。戦の目的に反して勝手に鄭君を逃がしたのは『賊(偽の勇。国を害する行為)』です。戦場で剛毅を棄てて礼を行ったのは『羞(偽の礼。楚共王の前で礼を用いたこと)』です。国の利益に背いて讎(敵)と親しくしたのは『佻(偽の勇。楚共王の親兵に遭遇したのに殺さず駆逐するだけで逃がしたこと。また、楚共王と鄭成公を逃がしたこと)』です。この三姦によって上を求めるようでは、政権は遠いでしょう。私が見るには、既に刀がその首にかかっており、長くはありません。

王叔も恐らく禍難から逃れられないでしょう。『太誓尚書・泰誓)』にはこうあります『民が望むところに、天は必ず従う(民之所欲,天必従之)。』王叔は郤至と与しようとしました。郤至と禍難を共にしないはずがありません。』

 

翌年、郤至は晋で殺されました。

東周霊王九年(前563年)、王叔陳生も周の大夫・伯輿と政権を争い、敗れて晋に出奔することになります。