春秋時代 孫周(晋悼公)

晋で悼公が即位しました。悼公は晋の覇業を恢復する名君です。

春秋時代135 東周簡王(十七) 周子の帰国 前573年(1)

『国語・周語下』には即位前の悼公の話が書かれています。

 

晋悼公は周子(孫周)といい、即位前は周の単襄公に仕えていました。

周子は立った時、斜めになることがなく、目は安定して一カ所を見据え、耳は余計なことを聞かず、言葉は知らないことを発しませんでした。周子の「敬」を語れば必ず天に及び(恭敬の姿は天に対する姿勢に等しい)、「忠」を語れば必ず意に及び(忠誠心は内心から生まれている)、「信」を語れば必ず身に及び(信義に関することはまず自分の身から始める)、「仁」を語れば人に及び(他人に仁徳恩恵を施す)、「義」を語れば必ず利に及び(人や物を利することができる。これを義といいます)、「智」を語れば必ず事に及び(事を処理する能力がある。これを智といいます)、「勇」を語れば必ず制に及び(勇敢ではあるが無謀ではなく、節制して度を越えることがない)、「教」を語れば必ず辯に及び(物事の分別ができる。是非が分かるから人に教えることができる)、孝を語れば必ず神に及び(孝の態度は鬼神に対する姿勢に等しい)、「恵」を語れば必ず和に及び(和睦することで親愛を生みだす。恵は愛、和は睦むことです)、「讓」を語れば必ず敵(対等な者)に及び(相手が対等な立場でも謙譲できる)、晋国で困難があれば必ず憂い、慶事があれば必ず喜びました。

 

単襄公が病に倒れた時、子の頃公を召してこう言いました「晋の周を厚く遇せよ。彼は必ず晋の国君になる。その行いは『文(文徳。天地の法則に従うこと)』と称することができ、文徳がある者は天地を得ることができる。天地から胙(福)が与えられたら、小さくても国を得るものだ(大きかったら天下を得ることができる)。『敬』とは文徳の中の『恭(恭敬の美徳)』にあたる。『忠』は文徳の『実(誠実)』にあたる。『信』は文徳の『孚(庇護)』にあたる。『仁』は文徳の『愛(慈愛)』にあたる。『義』は文徳の『制(節制・法度)』にあたる。『智』は文徳の『輿(車。文徳が乗る場所。基礎)』にあたる。『勇』は文徳の『帥(先頭に立つもの)』にあたる。『教』は文徳の『施(教化)』にあたる。『孝』は文徳の『本(根本)』にあたる。『恵』は文徳の『慈(慈愛)』にあたる。『讓』は文徳の『材(運用)』にあたる。天に対する姿勢に則ることで『敬』となり、自分の心意を守ることで『忠』となり、自分自身を反省することで『信』となり、人を愛することで『仁』となり、制度に基づいて利をもたらすことで『義』となり、百事をうまく処理することで『智』となり、義を守って行動することで勇となり、是非を明らかにすることで『教』となり、鬼神を明らかにして敬うことで『孝』となり、慈愛と和睦によって『恵』となり、敵(対等な者)を優先させることで『讓』となる。この十一者を夫子(周子)は全て備えている。

十一とは天の六(六気。陰・陽・風・雨・晦・明)と地の五五行。金・木・水・火・土)という常数の和である。天は六気を経(編物の縦糸)とし、地の五行を緯(編物の横糸)として、天地を治めている。経緯(十一の常数)を損なわないことが、文徳の表れだ。文王は文徳を備えていたため、天から天下を与えられた。夫子(周子)もその徳に守られているうえに、昭穆(親戚の関係)も近い(周子と晋侯は近い血縁関係にいる)から、国を得ることができるはずだ。また、彼は立っている時に斜めにならなかった。これは『正(正直)』だ。視線が安定していたのは『端(端粛)』だ。余計なことを聴こうとしないのは『成(堅定)』だ。知らないことを話さないのは『慎(慎重)』だ。『正』は徳の『道(根本)』であり、『端』は徳の『信』であり(端正かつ厳粛であることで徳が信用される)、『成』は徳の『終』であり(堅く安定することで徳が完成する)、『慎』は徳の『守』である(慎重に行動すれば徳が守られる)。徳を守って完成すること(守と終)によって徳はますます堅固になり、道が真っ直ぐで行いに信があること(道と信)によって、美徳が明らかにされる。『慎』『成』『端』『正』は徳を補佐するのだ。更に、彼が晋のために喜んだり悲しんだりするのは、本(根本。母国)を忘れないからだ。本を忘れず、文徳を備え、『慎』『成』『端』『正』に補佐されているのだから、国を得ないはずがない。

かつて成公(文公の子)が周から帰って晋で即位した時(東周匡王六年・前607年)、晋が筮を行ったところ、『乾』の卦を得て『否』の卦に変わり、卦辞に『国君の子でも位を継ぐことはできず、外から三君が出る(配而不終,君三出焉)』とあったそうだ。外から帰って即位した三君の一人目は成公である。三人目はまだ分からないが、二人目は周子に間違いない。成公が産まれた時、その母が夢で神に会い、神は成公の臀(尻)に墨で模様を描いてこう言ったという『彼を晋君にしよう。三代後、驩(襄公)の孫(曾孫・周子。古文は、孫以降は曾孫も玄孫も全て孫と書くことがありました)に国を与える(使有晋国,三而畀驩之孫)。』だから成公は『黒臀』と名付けられた。今の晋君(厲公)は成公から二代後になる(成公の次は景公。景公の次が厲公です)。そして驩というのは襄公の名で、周子はその孫(曾孫)だ。しかも周子には美徳があり、孝行で恭敬だ。彼でなくて他に誰がいるというのだろう。

夢では『驩の孫が必ず晋国を擁す(必驩之孫,実有晋国)』と言われ、卦辞には『必ず周から三回国君を取る(必三取君於周)』とあった。その徳は国君になるにふさわしいのだから、三者(徳・夢・卦)が合致したことになる。『大誓(『尚書・泰誓』。周武王が商を討伐した時の誓いの言葉)』には『わしの夢は卜と一致し、吉祥とも符合した。商を討てば必ず勝てる(朕夢協朕卜,襲于休祥,戎商必克)』と書かれている。これも三者(夢・卜・祥)が合致した例だ。晋(厲公)は無道を重ね、その子供も少ないから、必ず国君の位を失う。汝は今から晋子(周子)を善く遇せ。予言は必ず的中する。」

頃公は父の教えに従って周子を礼遇しました。

 

晋で厲公が殺されると、単襄公の予言通り、周子が晋に帰って即位しました。