春秋時代137 東周簡王(十九) 彭城の戦い 前572年

今回で東周簡王の時代が終わります。
 
簡王十四年
572年 己丑
 
[] 春正月、魯襄公が即位しました。この年、四歳です。
 
[] 己亥(恐らく「乙亥」の誤り。二十五日)、晋の欒黶、魯の仲孫蔑、宋の華元、衛の甯殖および曹人・莒人・邾人・滕人・薛人が彭城を包囲しました。
彭城は晋に投降します。
晋は宋の五大夫(魚石・向為人・鱗朱・向帯・魚府)を連れて兵を還し、瓠丘(壺丘)に五人を置きました。
 
以上は『春秋左氏伝(襄公元年)』の記述です。『史記・宋微子世家』は、諸侯魚石を誅殺したとしています。
 
[] 斉が彭城の戦いに参加しなかったため、晋が討伐しました。
二月、斉は公子・光(後に太子に立てられます)を人質として晋に送り、講和しました。
 
[] 夏五月、晋の韓厥(当時、国政を担っていたので中軍の将)と荀偃が諸侯を率いて鄭を攻撃し、郛(外城)に入りました。洧上(洧水沿岸)で鄭の徒兵(歩兵)を破ります。

『春秋左氏伝』には記述がありませんが、『史記・鄭世家』は「晋軍が洧上に駐軍した後、を守ったため、晋軍は撤退した」と書いています。

この時、東諸侯(魯の仲孫蔑、斉の崔杼と曹人・邾人・杞人)(鄭地)に駐軍して晋軍を待っていました。
晋軍は鄭から移動し、に集まった諸軍を率いて楚の焦邑、夷邑と陳国を攻撃しました。
晋悼公と衛献公は戚に駐軍して後援となります。
 
[] 秋,楚の公子・壬夫(子辛。子反の弟)が鄭を援けるために宋の呂邑と留邑を攻めました。
鄭の子然(穆公の子)も宋を攻めて犬丘を取りました。
 
[] 九月辛酉(十五日)、周簡王が在位十四年で死にました。
子の泄心が即位しました。これを霊王といいます。霊王は産まれた時から髭が生えていたといいます。
 
[] 邾子が魯に来朝しました。
 
冬、衛献公が公孫剽(子叔。黒背の子)を魯に送って聘問しました。
公孫剽は後の衛殤公です。楊伯峻の『春秋左伝注』によると子叔黒背の子で、黒背は定公の弟です(つまり衛殤公は定公の弟の子です)。しかし『史記』の『衛康叔世家』では名が「秋」に、『十二諸侯年表』では「狄」になっており、どちらにも「定公の弟」と書かれています。
 
晋悼公も荀罃(知武子)を送って魯を聘問しました。
 
ある国で新君が即位した時、大国は聘問し、小国は朝見することが礼とされました。邾は小国なので魯に対して朝見を行い、晋は大国、衛は魯と同等の国なので聘問を行いました。




次回から東周霊王の時代です。

春秋時代138 東周霊王(一) 虎牢築城 前571年