春秋時代 魏絳と張老

晋の中軍司馬・魏絳が新軍の佐に、張老が中軍司馬になりました。

春秋時代139 東周霊王(二) 雞沢の会 前570年


本編では『春秋左氏伝(襄公三年)』の記述を元にしましたが、ここでは『国語・晋語七』の内容を紹介します。
 
諸侯が雞丘(雞沢)で会を開いた時、魏絳は中軍司馬を勤めていました。
晋軍が曲梁(晋地)に入った時、公子・揚干(悼公の弟)が軍列を乱したため、魏絳が揚干の僕(御者)を処刑しました。
怒った悼公が羊舌赤に言いました「寡人は諸侯と会したばかりなのに、魏絳が寡人の弟を辱めた。わしのために彼を捕えよ。逃がしてはならない。」
羊舌赤が言いました「臣は絳の志(志向)を聞いたことがあります。彼は事に臨んで難から逃げることなく、罪があれば刑から逃げることもありません。彼自ら報告に来るでしょう。」
羊舌赤が言い終わった時、魏絳が僕人(文書を伝達する官)に書を預け、悼公に届けさせました。魏絳自身は剣を抜いて自害しようとしたため、士魴と張老が魏絳を抱きかかえて止めさせます。
僕人が悼公に書を渡しました。そこにはこう書かれています「臣が揚干を罰したことが死刑に値することは理解しています。かつて国君に人材が足りなかったため、臣は中軍司馬に任命されました。師衆(軍隊)は順(軍令に従うこと)を武とし、軍事(軍法)に対しては死んでも犯さないことを敬といいます。今、主君が諸侯を糾合したばかりなので、臣は職に対して不敬(職責を全うしないこと)ではいられません。主君がそれを喜ばないようなら、臣に死をお与えください。」
悼公は裸足で帳を出ると、魏絳に言いました「寡人の言は兄弟の礼である。汝の誅(刑)は軍旅の事である。寡人の過を重ねさせるな。」
悼公は帰国すると宗廟で宴を開いて魏絳を招き、新軍の佐に任命しました。
 

悼公は元々張老を新軍の佐卿)に任命しようとしましたが、張老は辞退してこう言いました「臣は魏絳に及びません。魏絳の智能は大官(卿)の職務を治めることができ、その仁は公室に利をもたらすことを忘れず、その勇は刑を行う時に躊躇することなく、その学は先人の職を損なうことがありません。もし彼が卿の位にいれば、内外とも必ず安定します。また、雞丘の会ではその職責を失うことなく、言辞は遜順でした。彼を賞すべきです。」
悼公は張老に五回任命を伝えましたが、張老はかたくなに拒否しました。
そこで張老を司馬とし、魏絳を新軍の佐に任命しました。