春秋時代143 東周霊王(六) 鄭の外交 前565年

今回は東周霊王七年です。
 
霊王七年
565年 丙申
 
[] 春正月、魯襄公が(前年参照)から晋に行き、朝聘の数(朝見・聘問時に献上する貢物の数)について、晋悼公の指示を聞きました。
 
[] 夏、鄭が釐公(僖公)を埋葬しました。
 
[] 鄭の群公子は釐公を殺した子駟を謀殺しようとしました。しかし子駟が先手を打ちます。
四月庚辰(十二日)、子駟が群公子の罪を探して、子狐、子熙、子侯、子丁を殺しました。孫撃と孫悪(一説では、二人は子狐の子)は衛に奔りました。
 
[] 庚寅(二十二日)、鄭の子国と子耳(子良の子)が蔡を侵し、蔡の司馬を勤める公子・燮(または「湿」)を捕えました。
鄭人は皆喜びましたが、子産(公孫僑。子国の子)だけはこう言いました「小国が文徳もないのに武功を立てた。これ以上の禍はない。楚人が討伐してきたら、彼等に服従しなければならないだろう。しかし楚に従えば、晋が必ず攻めて来る。晋楚が同時に鄭を討伐するようになったら、今後四五年は安寧を得ることができない。」
それを聞いた父の子国が怒って子産に言いました「汝が何を知っているというのだ。国には大命(君命)があり、正卿がいる。童子がそのようなことを言っていたら、戮(死)を招くことになるだろう。」
 
[] 五月甲辰(初七日)、晋侯(悼公)、鄭伯(簡公)と魯の季孫宿、斉の高厚、宋の向戌、衛の甯殖、邾の大夫が邢丘で会しました。晋が諸侯の大夫に朝聘の数を命じます。
鄭簡公は蔡から奪った戦利品を献上するため、自ら会に参加しました(但し、五六歳なので実際は大夫が会に出席しています)
 
[] 魯襄公が晋から帰国しました。
 
[] 莒がを滅ぼしてから(東周霊王五年・前567年)魯が旧国の地を侵しました。
そこで、莒が魯の東境を攻撃し、旧国の地で莒と魯の国境を定めました
 
[] 秋九月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。旱があったためです。
 
[] 冬、楚の公子・貞(子囊)が鄭を攻撃しました。鄭が蔡を侵したためです。
鄭の子駟、子国、子耳は楚に帰順しようとし、子孔(穆公の子)、子蟜(公孫蠆。桓子。子游の子)、子展(桓子。公孫舎之。舍之が名。子罕の子)は晋の救援を待つように主張します。
子駟が言いました「『周詩(逸詩)』にはこうある『黄河の水が清らかになるまで、いくらの人生が必要になるだろう。占卜が多ければ、自ら網を造ることになる(「俟河之清,人寿幾何。兆云詢多,職競作羅。」人生は短いのに、占卜ばかりやって異なる意見を求めていたら、意見が増えるだけでまとまらなくなり、自ら足をすくうことになる、という意味です)。』多族(朝廷の卿大夫)と謀ったら、見解が増えて混乱し、民が多くの事に従えなくなる。これでは事を成すことができない。今は民の危急の時である。楚に従って民の難を和らげよう。晋師が到着したら、それに従えばいい。恭敬な態度で幣帛を献上し、来る者を待つのが小国の道だ。犧牲と玉帛を用意し、二境(鄭と晋、鄭と楚の国境)で到着を待てば、強者が民を守ってくれる。寇(敵)が我が国の害にならず(先に楚が来て鄭と講和すれば、楚が後から来た晋を防いでくれます。先に晋が来れば逆になります)、民が困窮することもないのだから、それでいいではないか。」
子駟の言にある犠牲は強国と講和する時の会盟で使います。玉帛は講和時の礼物です。子駟は、国境で晋と楚に備え、鄭を攻めてきた国と講和を結んでとりあえず難をしのぐ、というどっちつかずの外交を主張しました。
子展が言いました「小国が大国に仕えるには、信が必要です。小国に信がなければ、兵乱が訪れて亡国は時間の問題となります。今、我が国は五会(東周霊王二年・前570年の雞沢の会。霊王四年・前568年の戚の会と城棣の会。前年のの会。本年の邢丘の会)信に背こうとしていますが、楚が我が国を援けたとしても、信を棄てて何の意味があるでしょう。楚国が我が国に親しくしても、良い結果はありません。彼等は我が国を自分の領土にしたいだけです。楚に従ってはならず、晋を待つべきです。今の晋君は聡明で、四軍に欠陥がなく、八卿(荀罃・士・荀偃・韓起・欒黶・士魴・趙武・魏絳)も和睦しています。晋が鄭を見捨てることはありません。楚師は我が国から遠く、糧食が尽きようとしているので、すぐに兵を退くはずです。恐れることはありません。『強い者に頼るくらいなら、信を守った方がいい(杖莫如信』といいます。守りを固めて楚を疲弊させ、信を守って晋の援軍を待つべきです。」
子駟が言いました「『詩(小雅・小旻)』にはこうある『謀る者が多ければ、成功することはない。庭中に意見が満たされたら、誰が過ちの責任を取るのだ(皆が好き勝手なことを言うだけで、責任を取る者がいなくなる)。それは歩きながら他の人と話をするようなもので、得るところはない(謀夫孔多,是用不集。発言盈庭,誰敢執其咎。如匪行邁謀,是用不得于道)。』楚に従おう。騑(私)が咎を受ける(責任を取る)。」
 
こうして鄭は楚と講和することになりました。
鄭簡公(実際は子騑)が王子伯駢(鄭の大夫)を送って晋に伝えました「晋君は敝邑に『汝等の車賦(兵車)を整備し、汝等の師徒(車兵と歩兵)に警備させ、乱略を討伐せよ』と命じました。そこで、命に従わない蔡人に対し、敝邑の人々は安逸を貪ることなく、敝賦(我が国の軍事物資、武力)を総動員して討伐を行い、司馬・燮を捕え、邢丘で献上しました。しかし今、楚が我々を討ってこう言いました『汝等はなぜ蔡に兵を用いた。』楚は我が郊保(郊外の堡塁)を焼き、城郭を侵しています。敝邑の衆は、夫婦男女(夫婦は既婚者。男女は未婚者。全国民の意味)が休むことなく助け合い、国が亡ぼうとしているのに訴える場所がありません。民の中で犠牲になる者は、父兄でなければ子弟であり、人々は憂い悲しみ、隠れる場所もありません。このように民が窮困に陥ったので(成す術がなくなったので)、楚の盟を受け入れました。孤(私)や二三臣(群臣)ではそれを止めることができず、報告しないわけにもいかないので、こうして使者を送ります。」
 
晋の荀罃知武子)が行人・子員を送って応えました「鄭君が楚命を受けた時、一介の行李(行人)を送って寡君(晋悼公)に報告することもなく、すぐ楚に従った。これは鄭君が望んだことだ。誰にも反対することはできない。寡君は諸侯を率いて城下で会いに行く。鄭君はよく考えよ。」
 
[] 晋悼公が士范宣子)を魯に聘問させました。春の襄公の朝見に対する答礼です。あわせて鄭討伐も相談しました。
襄公が宴を開くと、士が『摽有梅詩経・召南)』を賦しました。男女が時を失わずに結婚するという内容で、魯がすぐに動くように促しています。
魯の季孫宿(季武子)が言いました「誰が時機を失うでしょう。草木に喩えるなら、寡君と晋君の関係は、花や果実に香りがあるようなものなので(花や果実があれば香りもあります。晋がいればかならず魯も従うという意味です。士の詩が『摽有梅』だったため、花や果実を例えに使いました)、喜んで命に従います。速い遅いはありません。」
季孫宿は『角弓詩経・小雅)』を賦しました。「兄弟や縁戚の関係に距離はない(兄弟昏姻,無胥遠矣)」という内容です。
が退出する時、季孫宿が『彤弓詩経・小雅)』を賦しました。天子が功績のある諸侯を表彰する詩です。
が詩を受け入れて言いました「城濮の役(東周襄王二十一・前632年)の後、我が先君・文公は衡雍で戦功を献上し、襄王から彤弓を下賜されました。それは子孫代々宝藏となっています。先君の官の後嗣(文公を支えた功臣の子孫)です。命に逆らうことはありません(悼公を正して覇業を恢復させます)。」
 
 
 
次回に続きます。