春秋時代159 東周霊王(二十二) 孔子誕生 前552年(2)

今回は東周霊王二十年の続きです。
 
[(続き)] 晋から出奔した欒盈が周を通りました。しかし周の西境で財物を奪われます。欒盈が行人(周王室が派遣した賓客の対応をする官)に言いました「天子の陪臣・盈は王の守臣(晋平公)の罪を得て亡命することになりましたが、今回また、郊甸(城外が郊、郊の外が甸。ここでは周の郊外・国境の意味)で罪を得たため(財物を奪われたことを指します)、隠れる場所がなくなりました。よって死をかけて進言させていただきます。昔、陪臣・書(欒書)は王室のために尽力して王から恩恵を施されましたが、その子・黶は父の功労を守ることができませんでした、大君(周王)が書の努力を棄てないようなら、亡臣(欒盈)にも逃げる場所があるはずです。逆にもし書の努力を棄てて黶の罪を問うようなら、臣は誅殺されても余りある身なので、帰国して尉氏(軍尉)のもとで死に、二度と戻りません。四体を晒すかどうかは(処刑されるかどうかは)、大君の命に従います。」
周霊王は晋が欒盈を出奔させたことを過ちと判断しており、それに倣ってはならないと考えました。そこで、「過ちと知りながらそれを真似したら、更に大きな過ちになる」と言うと、司徒に命じて欒氏から奪った物を全て取り返させ、候人(賓客に道を案内する者)を送って轘轅山険道を越えさせました。
 
[] 九月庚戌朔、日食がありました。
 
[] 冬十月庚辰朔にも日食がありました。『春秋左氏伝(襄公二十一年)』の記述です。楊伯峻の『春秋左伝注』は、二カ月続けて日食が起きることは無いので、史官の誤記か司天の者の誤認としています。
 
[] 庚子(二十一日)孔子が産まれました。
これは『春秋穀梁伝(襄公二十一年)』の記述です。
『穀梁伝』は「十月庚子」ですが、『公羊伝』では「十一月庚子」となっています。しかし十月は庚辰が朔日(初一日)なので庚子がありますが、十一月に庚子はありません。よって『公羊伝』は誤りのようです。
史記孔子世家』は翌年の魯襄公二十二年(東周霊王二十一年・前551年)孔子が産まれたとしています。
資治通鑑外紀』は『春秋穀梁伝』と同じで「東周霊王二十年(本年。前552年)・十月庚子」説を採り、『資治通鑑前編』は『史記』と『春秋公羊伝』から「東周霊王二十一年(翌年。前551年)・十一月庚子」説を採っています。
 
以下、『史記孔子世家』『孔子家語・本姓解(巻第九)から孔子に関する記述です。
孔子は魯の昌平郷にある陬邑で産まれました。その祖先は宋人です。
西周時代、宋湣公(『史記孔子世家』の索隠や『孔子家語・本姓解』には襄公とありますが、恐らく誤りです)が死んでから、弟の煬公が立ちましたが、湣公の子・鮒祀(または「魴祀」)煬公を殺しました。鮒祀は湣公の庶子だったため、兄の弗父何湣公の太子)に即位を勧めましたが、弗父何が拒否したため、鮒祀自ら即位しました。これを厲公といいます西周共和時代参照)
弟に宋公の地位を譲った弗父何は、宋父周を産みました。周は世子勝を産み、勝は正考父(または「正考甫」)を産み、考父は孔父嘉を産みます。
孔父嘉は木金父を産み、金父生は睪夷を産み、睪夷生は防叔を産みました。この頃、宋の華氏による圧力を受けて、孔父嘉の一族は魯に遷りました(東周桓王十年・710年、孔父嘉が華父督に殺されました。残された家族は魯に奔りました)。孔父嘉の子孫は魯で孔氏を名乗るようになりました。
孔防叔は伯夏を産み、伯夏は叔梁紇を産みました。叔梁紇は勇猛な士として名が知られています(東周霊王九年・前563年参照)
叔梁紇と正妻の間には九人の娘が産まれましたが、男児は産まれませんでした。妾が孟皮(字は伯尼)という男児を産みましたが、足に障害があり、家を継ぐことができません。そこで叔梁紇は魯の顔氏に婚姻を相談しました。
顔氏には三人の娘がいました。顔氏が三人の娘に言いました「陬大夫陬邑の男。叔梁紇を指します)は父祖(父と祖父)ともに士だが、その先祖は聖王の後裔である(宋国は商王族の子孫の国です)。それに、彼の身長は十尺もあり、武力に優れているので、私は彼を見込んでいる。既に年をとり、性格も厳格だが、心配することはない。三人の中で、彼に嫁ごうという者はいないか。」
長女と次女は黙ったままですが、三女の顔徴在が進み出て言いました「父の決めたことに、異論を挟むことはありません。」
父が言いました「汝こそが相応しい。」
こうして顔徴在が叔梁紇に嫁ぐことになりました。
叔梁紇の家に入る前に、顔徴在は宗廟で叔梁紇に会いました。夫の老齢を改めて知った顔徴在は、子ができないことを心配します。そこで秘かに尼丘の山に登って祈祷しました。
やがて顔徴在は孔子を産みました。尼丘の山にちなんで、名は丘、字は仲尼とつけられました。
産まれた時から頭に圩頂(凹になっていて丘のように見えること)があったため、丘と命名されたともいいます。
 
孔丘が三歳の時、父・叔梁紇が死にました。叔梁紇は防山に埋葬されましたが、顔徴在が教えなかったため、孔子は父の墓がどこにあるのか知らずに育ちました。結婚してすぐに夫に死なれたため、顔徴在は孔氏の人々に疎まれて夫の葬儀に参加できず、顔徴在自身も叔梁紇の墓がどこにあるかを知らなかった、ともいわれています。

子供の頃の孔子は木で俎や豆(どちらも祭祀で使う食器)を作り、儀礼の真似をして遊んだといいます。

後に顔徴在が死ぬと、孔子は母の死体をすぐに埋葬せず、五父衢(地名。大通り)に置きました。その時、陬邑の人・輓父の母孔子叔梁紇の墓の場所を教えたため、孔子は顔徴在を叔梁紇と合葬することができました。

孔子がまだ母の喪に服していた時、魯の季氏を集めて宴を開きました。孔子も参加するために季氏の屋敷を尋ねます。しかし季氏の家臣・陽虎「季氏を招待したのだ。(汝)を招待したのではない」と言って拒否したため、孔子は引き返しました。

[] 曹武公が始めて魯に来朝しました。
 
[十一] 晋侯(平公)、魯公(襄公)、斉侯(荘公)、宋公(平公)、衛侯(殤公)、鄭伯(簡公)、曹伯(武公)、莒子、邾子が商任で会しました。諸侯に欒氏を受け入れさせないためです。
 
斉荘公と衛殤公が不敬だったため、叔向が言いました「二君は禍から逃れることができない。会・朝(「会」は諸侯の会見・会盟。「朝」は天子や覇者、大国への朝見)は礼の経(常規)である。礼とは政の輿(車)である(政治は礼という車に乗って行われる)。政とは身の守である(政治が正しければ身が安全になる)。礼を怠れば政を失い、政を失えば立つことができなくなり、これが乱の元になる。」
 
[十二] 晋の大夫・知起、中行喜、州綽、邢蒯が斉に出奔しました。四人とも欒氏の党です。
楽王鮒が范に言いました「なぜ州綽と邢蒯を呼び戻さないのですか。二人は勇士です。」
が言いました「彼等は欒氏の勇士だ。わしが得ることができるか。」
楽王鮒が言いました「子(あなた)が彼等の欒氏になれば、彼等は子の勇士になります。」
しかし范は進言を聞き入れませんでした。
 
斉荘公が朝廷で殖綽と郭最を指さして言いました「彼等は寡人(国君の自称)の雄である。」
亡命してきた州綽が言いました「国君が雄というのですから、誰に反論があるでしょう。しかし臣は不敏(不才)でありながら、平陰の役(東周霊王十七年・前555年)二子より先に鳴きました。」
州綽が言う「雄」とは「雄鶏」のことです。闘鶏では勝った鶏が先に鳴き声を上げます。平陰の役で州綽が殖綽と郭最を捕えたため、「二子より先に鳴いた(二子に勝った)」と言いました。
 
荘公が「勇爵」しようとしました。「勇爵」とは、勇士に爵位を与えるという意味なのか、勇士に爵(酒器)を与えるという意味なのか、はっきりしません。
殖綽と郭最が爵を望むと、州綽が言いました「東閭の役(東周霊王十七年・前555年)では臣の左驂(馬車の左の馬)が動けなくなりましたが、城門の中に滞在して門の釘の数を全て数えました(敵中で動けなくなっても退却しませんでした)。この勇には爵が与えられませんか。」
荘公が言いました「子(あなた)は晋君のためにそうしたのだ。」
州綽が言いました「臣は隸(臣下)になって間がありません。しかしこの二子は、禽獣に喩えたら、既に臣にその肉を食べられ、その皮が寝床に使われているようなものです(古くからいる二人よりも、新しく来た私の方が勇猛です)。」
結局、誰に勇爵されたのかはわかりません。州綽は勇士として荘公に重用されることになりますが、荘公が崔杼に殺された時、州綽も処刑されました(東周霊王二十四年・前548年)
 
 
 
次回に続きます。