春秋時代169 東周霊王(三十二) 宋の太子 前547年(2)

今回は東周霊王二十五年の続きです。
 
[] 楚康王と秦軍が連合して呉を攻撃し、雩婁に至りましたが、呉に備えがあると聞いて兵を還しました。
楚・秦連合軍はそのまま鄭を侵します。
 
五月、連合軍が城麇に駐軍しました。
城麇を守っていた鄭の皇頡が城を出て楚軍と戦いましたが、敗れて穿封戌に捕えられます。
楚の公子・囲(共王の子)が穿封戌と功績を争い、伯州犂に意見を聞きました。伯州犂は「囚(捕虜)に聞きましょう」と言って、捕えられた皇頡を二人の前に立たせます。
伯州犂は「二人が争ったのは君子(皇頡)です。君子に分からないことはないでしょう」と言うと、皇頡の方を向き、手を挙げて「夫子(彼)は王子・囲だ(楚は王を称しているため、その子は王子です。しかし『春秋左氏伝』は楚の王子を公子と書いており、私の通史も多くの場所で『春秋左氏伝』に従って公子と書いています)。寡君(楚王)の尊貴な弟である」と言い、手を下げて「此子(彼)は穿封戌だ。方城外の県尹である。誰が子(あなた)を捕えた?」と問いました。
身分の高い王子・囲の歓心を得た方が得になるので、皇頡が「王子・囲」と答えるように誘導しています。ここから「上下其手」という四字熟語が生まれました。「小細工をする」「いんちきをする」という意味です。
皇頡が答えました「頡(私)は王子に遭い、抵抗できなくなりました。」
怒った穿封戌は戈を持って王子・囲を追いかけましたが、追いつけませんでした。
後に楚は皇頡を釈放して帰国させました。
 
鄭の大夫・印父も皇頡と共に城麇を守っており、楚軍に捕えられました。楚は父を秦に贈ります。
鄭は印氏の財貨を使って父の返還を求めました。子太叔が令正(文書を掌る官)として秦との交渉文を作成します。しかし子産がこう言いました「この方法では父は帰って来ないだろう。楚の功を受け取ったのに、鄭から財貨を得るのは(楚を裏切って財貨のために楚から贈られた物を鄭に譲るようでは)、国として相応しくない。秦にはできないはずだ。もしも『貴君の鄭国に対する勤(助け)を感謝します。貴君の恩恵がなければ、楚師はまだ敝邑の城下にいるでしょう』と伝えれば、成功するはずだ。」
秦は楚と共に出兵しましたが、鄭と直接戦っていません。そこで秦の出兵を利用し、秦軍が接近したおかげで楚が戦いを停止したと言って礼物を贈れば、秦は鄭の謝意に感謝して父を還すはずだ、というのが子産の考えです。
子太叔は子産の忠告を聴かず出発しましたが、秦は楚を裏切ることができず、父を還しませんでした。
そこで再び幣(礼物)を持った使者を派遣し、子産の言葉通り秦に伝えました。父は釈放されました。
 
[] 六月、晋の趙武、魯襄公、宋の向戌、鄭の良霄および曹人が澶淵で会しました。衛の討伐に関して相談し、戚田(戚邑)の境界が定められます。衛の西部に位置する懿氏(地名)六十邑が孫氏に与えられました。
この会見に宋の向戌は遅れて参加しました。
 
衛献公も参加しました。しかし晋は献公に従う甯喜と北宮遺(成子。北宮括の子)を捕え、女斉(女叔侯。司馬侯)に命じて二人を連れて先に晋に帰らせました。
衛献公は晋に行きましたが、晋は献公を捕えて士弱の家に監禁しました。
 
秋七月、斉景公と鄭簡公が衛献公のために晋に行きました。晋平公は宴を開いてもてなします。
晋平公が『嘉楽詩経・大雅・仮楽)』を賦しました。「君子を称賛し、美徳を顕揚する(仮楽君子,顕顕令徳)」という句で始まります。「仮楽」は「嘉楽(称賛・賛美)」と同じ意味で、「君子」は斉景公と鄭簡公を指します。
斉景公の相を務める国弱(景子)が『蓼䔥詩経・小雅)』を賦し、鄭簡公の相を務める子展が『緇衣詩経・鄭風)』を賦しました。
『蓼䔥』には「既に君子に会い、親しく睦み合う。互いに兄・弟と呼び、美徳は限りない(既見君子,孔燕豈弟,宜兄宜弟,令徳歳豈)」とあります。晋も鄭も衛も姫姓で兄弟の国なので、仲睦まじくあるように勧めています。
『緇衣』には「あなたの館舎を訪れ、あなたに美食を贈る(適子之館兮,還予授子之粲兮)」とあり、鄭が晋に入朝して言葉を贈るので、受け取ってほしいという意味があります。
晋の叔向が晋平公に二君を拝礼させて言いました「寡君は斉君が我が先君の宗祧(宗廟)を安定させたことに拝し、鄭君に二心がないことに拝します。」
晋平公も叔向も斉と鄭の意志が衛献公の釈放にあることを知っていましたが、敢えてそれには触れず、感謝をしました。
 
国弱が晏嬰(晏平仲)を使って個人的に叔向に伝えました「晋君は諸侯の間で明徳を宣揚しており、諸侯の憂患を心配し、過失を補い、違(礼から外れたこと)を正し、煩(乱)を治めています。だから盟主でいられるのです。今、臣下(孫林父)のために国君(献公)を捕えましたが、どうするつもりですか?」
叔向はこれを趙武(趙文子)に伝え、趙武は晋平公に報告しました。平公は衛献公の罪を並べ、叔向を送って斉・鄭の二君に伝えさせました。
すると国弱が『轡之柔矣(『詩経』にはありません。『逸周書・太子晋篇』にみられます)』を賦し、子展が『将仲子兮詩経・鄭風)』を賦しました。
『逸周書』の『轡之柔矣』には「馬が剛烈なら手綱を柔らかくする。馬が剛烈でなければ手綱も柔らかくしない(馬之剛兮,轡之柔兮。馬亦不剛,轡亦不柔)」という句があります。剛と柔を使い分ける必要があるという意味です。
『将仲子兮』は愛し合う男女の詩で、周りの目があるので恋人に会えない女性の言葉があります。「あなたを愛していないのではありません。人々の多言を恐れるのです(豈敢愛之,畏人之多言)」という句です。晋の行動は多くの非難を浴びているので注意しなければならない、と平公に伝えています。
晋平公は衛献公の釈放に同意しました。
 
叔向が言いました「鄭の七穆の中で、罕氏は最後まで残るだろう。子展(子罕の子なので罕氏を名乗っています)は節倹で専心である。」
七穆というのは鄭穆公の子孫です。穆公には十一公子がいましたが、子然、子孔、士子孔の三族は既に滅び、子羽は卿になりませんでした。残った七人の家系を七穆といいます。子展・公孫舎之の罕氏、子西・公孫夏の駟氏、子産・公孫僑の国氏、伯有・良霄の良氏、子大叔・游吉の游氏、伯石・公孫段の豊氏、子石・印段の殷氏です。
 
[] 以前、宋の大夫・芮司徒(芮は氏)に女児が産まれましたが、色が赤く毛が生えていたため、堤の下に棄てました。それを共姫(宋伯姫。宋共公夫人)妾が拾って育て、「棄」と名付けました。
棄は成長すると美女になります。
ある日の夕方、宋平公が母・共姫を訪ねて一緒に食事をしました。そこで平公は美女・棄を見つけます。平公が棄を気に入ったため、共姫は棄を平公の御妾にしました。
棄は平公の寵愛を受けて公子・佐を産みました。佐は容姿が優れませんでしたが、性格は順和でした。
逆に平公の太子・痤(または「座」)は美男子ですが性格が悪劣でした。合左師(向戌)は太子を恐れ、嫌うようになります。
寺人(宦官)・恵牆伊戻(恵牆が氏。伊戻が名)は太子内師(太子宮の宦官の長)になりましたが、太子から嫌われていました。
 
秋、楚の客が晋を聘問し、その後、宋を通りました。太子・痤は楚の使者と知り合いだったため、野外で宴を開く許しを請い、平公は同意しました。
すると伊戻が太子に同行すると言います。平公が問いました「太子が汝を嫌っているのではないのか?」
伊戻が答えました「小人が君子に仕える時は、嫌われても遠くに離れず、好かれても敢えて近付こうとせず、謹んで命を待ち、二心を抱かないものです。太子には外に従う者がいても、内で補佐する者がいません(恐らく、身の世話をする宦官が必要という意味だと思います)。臣に行かせてください。」
平公は伊戻を派遣しました。
 
野外に出た伊戻は、地面に穴を掘り、犠牲を殺し、盟書を偽造してから、急いで平公に報告しました「太子は乱を起こすつもりです。すでに楚の客と盟を結びました。」
平公が問いました「わしの嗣子であるのに、何を求めて謀反するのだ。」
伊戻は「速く即位したいのです」と答えます。
平公が人を送って確認させると、盟を結んだ跡がありました。伊戻が偽造したものです。
平公は太子・痤を疑い、公子・佐の母・棄と向戌に意見を求めました。二人とも「太子の謀反は確かに聞いたことがあります」と答えます。
平公は太子を逮捕しました。
 
捕えられた太子・痤はこう言いました「佐だけが私を禍から逃れさせることができる。」
太子・痤は使者を送って公子・佐を招き、こう伝えました「日中(正午)までに来なかったら、私は死ぬ。」
太子・痤の伝言を知った向戌は、わざと公子・佐に会って長話しをしました。話しがなかなか終わらないため、公子・佐が太子に会いに行く前に正午になり、太子・痤は首を吊って死んでしまいました。
公子・佐が太子になります。
 
暫くして平公が徐々に太子・痤の無罪を知るようになり、伊戻は処刑されました。
 
後日、向叔が夫人(太子・佐の母。棄)の歩馬の者(馬を散歩させる官)に会いました。向叔が誰に仕えているか問うと、「君夫人(国君夫人)です」と答えます。
向叔はこう言いました「君夫人とは誰だ?なぜわしは君夫人を知らないのだ?」
棄は身分が低い出身だったため、向叔は棄を軽視しています。また、公子・佐が太子になったおかげで、棄は夫人になれました。公子・佐が太子になるのを助けたのは向叔です。そこで夫人に自分を尊重させるため、わざと夫人を侮辱する発言をしました。
圉人(歩馬の者)が帰って夫人に報告すると、夫人は錦、馬と玉を向叔に贈り、「国君の妾・棄が使者を使わしてこれらを献上します」と伝えました。
向叔はこの後、「君夫人」と呼ぶようになり、再拝稽首して財物を受け取りました。
 
[] 鄭簡公が晋から帰りましたが、すぐ子西を晋に送って聘問しました。子西が晋平公に言いました「寡君が来て執事(晋の執政官。晋侯)を煩わせましたが、無礼を働いたのではないかと恐れ、改めて夏(子西の名)を派遣して不明を謝罪することになりました。」
 
これを聞いた君子(知識人)は「鄭は善く大国に仕えることができる」と評価しました。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代170 東周霊王(三十三) 伍挙と声子 前547年(3)